音楽の あれこれ/1

73/1/14のエルヴィス・ハワイ公演

    2013年4月13日(土)22時〜NHK総合テレビの番組「SONGS」で、エルヴィス・プレスリー・衛星ライヴ「アロハ・フロム・ハワイ」が放映されました!

 エルヴイスは、わざわざ日本のファンのために、放送をハワイ時間の深夜12時30分にスタートさせくれましたので、日本ではゴールデン・タイムの夜7時に放送されました。日本での視聴率38.7%。エルヴイスありがとう!

 

 世界で15億人が観た中継ライヴのリアルタイム放送は、

1973年1月14日(日)<2連休初日>の夜でした。

 しかしこの夜この時、

 僕(ら)にとっては、苦々しい大事件の日だったのです!

 

 う〜ん……ちょっと思い出すだけでも、やたら腹立たしいわ!! 

 「何があったんですか」って…。

  当時、留寿都にできた新しいスキー場に泊まったホテルの食堂で、エルヴィスの番組を観るのが一番の楽しみで行ったのに、「7時30分になったから規則なので消灯だ!」(放送は7時からで始まっていた)って、食堂の管理人(じいさん)が、事前連絡なく、始まったばっかりのエルヴィス番組のスイッチを、勝手にパチンって切っちまったんだよ、糞爺が…。(乱暴な言葉使いですが、かなり怒ってるもんで)みんなビックリ…そして唖然。(何があったんだ?)

 1973年というと、そうか…ちょっきり40年前で、僕は27歳。若気の至りで友人3人でデザイン会社を立ち上げ、このスキー場のロゴを僕がデザインした関係で、カメラマンとモデルを連れてスキー場の撮影に来てたのですね。

 一日中あちこち撮影して回り、陽が落ちて暗くなった夕刻にホテルに着いて風呂入って、それから件の食堂でみんなでワイワイ夕食してから、さ〜てお目当ての「エルヴィス・フロム・ハワイ」の衛星中継を。

 この食堂には道外からの若い客たちも賑やかに大勢いて、もちろん皆さんエルヴィス待ちの様子。(30名ほどいたような)そして前記したような状況に至るのだった。

 当時このホテルの各部屋にはテレビがなく、みんながテレビを観ようと食堂に集まっていた次第で、とっさに何人かで爺に状況を説明説得したが、そこはエルヴィスを知らなく興味のないこの人には全く通用せず、「俺には関係ない!」って、トットと行ってしまったので、ついに諦めるに至ったのだった。

 この夜はすぐには寝つかれずに、同僚と朝まで将棋をやって気を紛らわした。

 ズーッと後の時代になってから、自分のラジオ番組のエルヴィス特集で “そんなことがあった“ とボヤいたりもした。

 先日のテレビを観て、あ〜昔そんなことがあったな〜と思い起こしてる中高年が、日本のあちこちに30人程いたんでしょうね。しつこいけれど、僕は1973年1月14日のこのことは死ぬまで忘れないかんね。本当に悔しかったから。(番組映像はDannyにて観れます)

 


       ▲▼クリックで拡大になります

閉店2日前の2月27日(水)

「札幌クラブハイツ」に行ってきました。

 

 僕が最初にキャバレーを体験したのは1964年(昭和39年

の東京オリンピック年)で、札幌の高校を卒業した春に東京へ出た年の年末でした。そこは新宿の「大学」という大衆キャバレーで、先輩のおごりでした。50年代中頃から大ブームになったフルバンドで演奏するマンボ、ルンバ、チャチャチャなどのラテン系ダンス・ミュージックとジルバ…そして60年代初頭に大ブレイクしたツイストで、客たちはワイワイ賑やかに踊ってました。オンナに免疫性のない僕の胸をドキドキさせたのは、ホステスさんとベッタリできるチーク・ダンスでしたね。

 その後業者のお呼ばれや会社の上司のお伴で、銀座の高級キャバレー「クイーンビー」。赤坂の高級ナイトクラブ「月世界」では、巨人軍の王&長島さんが二人だけでいる情景<女の娘4人に囲まれて>を目撃してます。その後札幌へ戻ってからの70年代以降、いわゆる昭和キャバレーには一度も行ってません。

<東京時代のお話は「落とし物・忘れ物の東京時代・1の<俺も同罪?>」に詳細掲載>

 

 「札幌クラブハイツ」は、僕ら音楽仲間が毎年恒例で12月上旬にお店を借り切って「ロックン・ロール・ダンスパーティ」を開催していた関係で「店無くなるなら最後だから行ってみるべ!」と言う訳で、今回キャバレー訪問48年振り、最後です。

 7時頃にはガヤガヤと客が満杯になって、ステージではコンボ・バンドが軽く演奏しはじめる。演奏曲は「イン・ザ・ムード」続けて「マンボNo.5」「ムーンライト・セレナーデ」「ひょっこりヒョウタン島」?「ラバー・カムバック・トゥ・ミー」「霧のサンフランシスコ」と続く。キヤバレーはやっぱりダンス・ミュージックが基本ですからね。

 続いて8時過ぎのステージでは、特別ゲストとして「なみだの操」「おんなの運命」の元殿さまキングスの宮地オサムさんの<カラオケ・ワンマン・ショー>でした。

 お客さんは、殆どが頭が白くなったり薄くなったしたオヤジたちで満杯。キャバレー全盛期の60〜70年代には、みんなパキパキの脂っこい若い男たちであったのが…ここでの情景は「これが現代日本の姿なんだな〜」と思わせましたね。

 ホステスさんのボディ・ラインくっきりの紅いキャバレー・ドレスも見納めだ。僕らの席に着いてくれたシルビア似の“サトミさん”ありがとう。お疲れさま、元気でね!。

 また昭和のひとつが消えた。と同時に「ススキノが消えた!」夜でした。(2013/2/27)

 

 

 

 

シングル・レコード「見本盤」

 レコード会社がプロモ用としてレコード店に提供したもの。

このレコードは1968年に発売された、ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス「ディス・ガイ」。レコード店の女性店員さんからのプレゼントでした。

 

 

 

アメリカのシングル・レコード

紙袋とレコードのみ。通常は日本盤のようなレコジャケ(ライナノーツ)はついていません。

 

 


 

 

アメリカ航空宇宙局の録音による「月面着陸」記念レコード

人類ついに月に立つ

 ーアポロ11号からのメッセージー

 

 このレコードは1969年7月21日、人類として最初に地球以外の天体である月に降り立ったアポロ11号の宇宙飛行士たちの快挙を、劇的な月着陸第一声を中心に編成され、この史上最大の感動のドラマを永遠に記録し記念するために制作されたものです。(非売品)

 

※レコード・パッケージには ●33回転レコード/飛行船月面)と地球(NASA)との交信音源 ●交信メッセージの日本語訳 ●飛行軌道図 ●解説書がセットになっています。 <PHILIPS/日本ビクター株式会社>

▲左から/レコジャケの表と裏(袋形)/17インチ・レコード

(3人の宇宙飛行士、左からエドゥイン・E・オルドリン/マイケル・コリンズ/ニール・アームストロング船長<2012・8・25没>)

▲アポロ11号の飛行軌道図(拡大してご覧ください)

▲別刷り解説書とジャケ中にも解説あり

(写真をクリックすると拡大になります)

 

 でね…アポロ11号が月へ到達したこの日は、僕もNASAからのTV宇宙中継をワクワクしながら見ていました。

 でも瞬間的に“未知の夢がひとつ消えたな…”と、ちょっと悲しく思っちゃいましたね。

 僕自身は以前から、単なる人間の勝手な欲望とか競争とか好奇心で、地球上のまだ知られていない自然界とか、目で見える(望遠鏡で見える)範囲の太陽月・金星などの宇宙は、急いで解明しなくても…もっと時間かけてゆっくり知るほうが、未来の人間にとって幸福なことなのではないか? いまもその感傷的感情は変わっていません。

 

 

 

 

ソノシートの世界

 

 ペラペラの薄い半透明ビニールでできたレコードがソノシート。多くは映画雑誌の付録でした。(片面のみ録音)音楽が録音されているというよりも、映画出演した俳優のメッセージとテーマ音楽が録音されているものが多く、まぁ 映画のプロモーション用ですね。

 

▲上左から、アラン・ドロンとナタリー・ドロンのメッセージ(1975年) 中央は、映画と音楽社発行「ティーンビート」の付録、“スターの声をあなたに”。高崎一朗氏紹介で「ジョニー・ティロットソン」のメッセージが録音されています。右は、第45回アカデミー賞受賞式<ライザ・ミネリら受賞スターの感激の声>とあります。(1973年)

 

▲そして上のソノシートが  僕の「お宝」です。

 ようこそ ジョージ・チャキリス ♥レッツ・ゴー物語♥ のソノシート。東芝フォノブック/定価180円とあるので有料品だったのですね。 なぜお宝?…映画「レッツ・ゴー物語」のテーマ曲、グレーグ・ダグラスの歌入りで、曲間にジョージ・チャキリスとジャネット・スコットの映画のセリフが入っている、というものです。(1962年)

 

 

シングル・レコードとジューク・ボックス

シングル・レコード物語

 アメリカのRCAビクター社が1949年に発売した、直径174mm/毎分45回転/ビニール素材(ポリ塩化ビニール)のアナログ式の録音盤がシングル・レコードの発祥。最大片面3分30秒程度の録音時間で、A面・B面の表裏各1曲づつが収録できた。

 ジュークボックスなどのオートチェンジャー機器で1曲づつ連続演奏するため、盤の中心部に直径38mmの穴を空けた形状から、ドーナツ盤と俗称されている。

 写真で紹介したように、穴の形状は2種類ある。

 左側は円形の付属アダブターをターン・テーブルにセットして使うタイプ。右側の3本支柱のものは、ターン・テーブル中央のピンにそのまま噛ませるか、または3本支柱をパキッと折り外し円形の穴にして、ジュークボックスに使用するものである。(ジュークボックス内蔵の写真参照)

 このシングル・レコードは、1958年のステレオ盤登場と同時期に、戦後生まれのベビー・ブーマーが、60年代初頭には新しい音楽の消費者として登場して隆盛を迎える。70年代のオーディオ・ブーム時代には、LP盤とともに録音テープと並走して音楽ソフトの主流として君臨するが、1982年のCD登場から、その地位を序々に追われる。

 日本(盤)のレコ・ジャケ&ライナーノーツ付のシングル・レコードは、他国にはないもとして特に貴重品扱いとされている。また、赤色半透明のレコード盤は“赤盤”と称されて、子供たちに人気があった。