高校生時代/2

フランス映画「甘い暴力」

 

  “さっぽろ祭りの人の出でをかき分けて、めざすは狸小路2丁目の帝国座のキップ売場にて。

「高校生ひとり」

「はい、どうぞ」

 買えた、入れるよ!ということは、この映画は[成人映画/未成年者お断り]ではなかった。

 今日は意を決して、フランス映画「甘い暴力」を観にきた。

  “フランスの避暑地コート・ダジュールを舞台に、ギャングの抗争に巻き込まれた男女の悲しい姿を描いた物語。官能と衝撃の問題作!

 1963年の春に、映画と同名の主題曲「甘い暴力」は、フランスのロックン・ロール歌手ジョニー・アリディーが歌って、日本で大ヒットしていた。僕はこのバラード曲が大好きだったのでレコードをすぐに買った。

 ところでジョニー・アリディーが大きく口を開け歌っている写真の、このレコード・ジャケットの左下に、黒人たちに囲まれて写っている豊満な白人女は??フランスの男優ピエール・プリンスと共演した、ドイツのセクシー女優エルケ・ゾマーだった。以来、彼女の動く姿が観たくて17歳の全身はズキズキしていた、という具合である。

 ジャケットのエルケ・ゾマーの艶かしい横座りの姿体、加えて官能と衝撃の問題作!のキャッチ・コピーに僕はグィッと引かれていた。「でもな~ 成人映画なんだろうな~?」と勝手に躊躇していたのだ。

 まぁ映画はシーンがあちこち飛んでちょっと難解な、ヌーベルバーグ風フランス映画らしい展開であったし、ストーリーは大人向け内容だから充分に理解できなかったが、豊満な動くエルケ・ゾマーをたっぷり堪能できたのでそれなりに満足できたし、ジョニーが歌った甘いバラードの「甘い暴力」も映像と重なって、さらにあらためていいな~と思ったのである。

 ちなみにもう一本の映画は、フランスのロジェ・ヴァデム監督作品「悪徳の栄え」という、第二次世界大戦末期のドイツ軍を舞台にした退廃もので、内容はいまひとつだったが、絶世のフランス美女、カトリーヌ・ドヌーヴが出演したので最後まで観てしまった。

 僕はそれからしばらくエルケ・ゾマー型の女(ひと)が、どこかにいないものか?と妄想・夢想しながら周りを気にしていたが、そんな女は見つからなかった。                 

 

 

洗面器もってデートかよ?

 

「あれ!お前どうしたのよ!?」

 約束の夕刻5時から30分ほど遅れて、同級生の小林が、

「遅くなってゴメン」といってハーハー息を切らして現れた。

身体の脇に、石鹸と手ぬぐいの入った、平べったいブリキの洗面器を抱えている。???

 

 ここは南3条西2丁目のHBC三条ビル地下の「コロンバン」という洋菓子店の喫茶コーナーだ。

 僕と広川と他校の女子高生たち4人は、オシャベリして彼を待っていたのだ。女の子たちは、ちょっとビックリした感じで

どうしたの?」

「これから風呂に行くのか?

彼は「う う~ん いや」と曖昧な返事。

 女の子たちとデイトだって言うのに、洗面器持ってくる奴かよ僕は少しムッときたと同時に、洗面器を抱えているこいつの姿を不思議に思った。

 

 小林の家は狸小路8丁目にあって、小さな新聞発行社を営んでいる。家はけっこう躾が厳しくて、夕方になるといつも決まって、入口から直接見える居間の真ん中に、でっぷり太ったブルドックのような親父が、ドンと座ってギョロッとしている。

だから親父さんの前を通ってニ階の子供部屋に上がるには、

「こんにちは、お邪魔します。」とか…

「お晩です、遊びにきました。8時までに帰ります。」とか…、

子供ながらにも丁寧にキチっと挨拶しなければならなかった。 

 家族構成は父母と彼の上に兄が2人、彼を間に姉と妹がひとりの5人兄妹である。

 ここは狸小路のはずれだが便利な都心ということと、電話があるのでいろいろと連絡しやすく、彼の家は僕らの行動基地になっていた。学校が終わるとほとんど毎日ここに集って、遊びの計画やら情報交換やら部屋で音楽を聴いたり雑誌を眺めたり、ワイワイやっていた。

 僕らの仲間は、悪いことを考えたり(考えるが行動はできない。)不穏な行動は一切ないのに、なぜか?僕らを見る親父さんの視線は鋭かった。恐らく…<こいつらの行動に油断はできない!と思っていたであろう。確かに保護者として、教育的にはそれが正解でしょうがね…>

 

 「俺んちさ~門限6時半だしね、夜に遊びに出るのはね、

どうしてもっていう用事以外は、ほとんど6時半が門限だからさ!だから今日は風呂行ってくるって、出てきたんだよね」

だって。

 

 昭和40年頃までは、夕食は家族全員が揃って、

「今日あった出来事は?」「学校で何があった?」など、

親にしつこくうるさく質問されつつワイワイ賑やかに集うのが

習慣だったから、どの家庭も夕方の6時半には家にいるのが普通だった。

 「急いでメシ喰って出てきたんだ!」

彼はひとしきり一方的にあれこれオシャベリして、1時間後にはコップの水を頭にまぶして、そそくさと帰って行った。

 

 次の日の朝、学校での話。

 帰ってから親父の前でさ「あぁ~いい湯だった!」って言ったら、ギョロッと睨まれて「でぬぐい濡れてねえぞ!」だって、「焦ったわ…」ちゃんと見られていたんだよね!

 

小林君のお姉さんが定期購読していたと思われる、アメリカの10代向けファッション雑誌「セブンティーン」。オール・カラーの、ピチピチしたモデルがいっぱいのファッション雑誌は、1962年時点では随分珍しかった。

「アメリカって映画と同じなんだ〜。」

 

 

 

 

 

 

 

 

みんなサユリスト

 

 

 

 

HBCラジオのサテライスタジオ 

 

   かつて札幌の三越デパート1階のテラスに、HBCラジオのサテライト・スタジオがあた。1963年(昭386月に開設されたそうだ。ここから夕方4時に「飛び出せスタジオ」という番組がこのサテライトから放送されて、ラジオ派の高校生たちにも人気があった。

 秋になって、僕たちがこの番組に出演できることになった。多分、リクエスト・ハガキで選ばれたと思うのだが?

 持参したレコードは、ロイ・オービソンの「カムバック・トゥ・ミー」。

 この曲は、この頃のHBCラジオ/日曜日の朝10時から30分間の音楽番組「キング・ミュージックデイト」で、ロイ・オービソンが初めて紹介された曲。彼のファルセット・ボイスには本当にシビレタものだった。僕にとっての記念すべき一曲。

 まだビートルズ世界デビュー前で、アメリカン・ポップス百花撩乱で華やかな名曲が目白おし。毎日のようにリクエスト・ハガキを出した。そしてラジオでかかった新曲やヒット・チャートを、大学ノートにコツコツ記録していくのが日課だった。(日本中で多数の中学・高校生がやっていた)

 ときにはラジオで紹介された音楽だけでは飽き足らず、気に入った曲を仲間数人で集中リクエストして、北海道地域でスモール・ヒットさせたりもした。ベトナム戦争本格介入とケネディ大統領暗殺事件直前の、楽しく明るい最後の年だった。

 

 

ROY ORBISON 1936.4.231988.12.6

 

 1990年に公開されたアメリカ映画「プリティ・ウーマン」で、主題歌に起用されたオー!プリティ・ウーマンの「ロイ・オービソン」と紹介すれば、3040代の方々にも思い出してもらえるかも知れない。<音楽を聴いてみると、すぐにピンとくるのだがね>

 彼は、エルヴィス・プレスリーと同じメンフィスにあったサン・レコードの出身で、サンからは鳴かず飛ばずであったが、1960年代に入って移籍したRCA系列のモニュメント・レコードから数多くのヒット曲を飛ばした。1960年「オンリー・ザ・ロンリー」(全米2位)、61年「クライング」「ランニング・スケアード」(初の全米1位)、62年「ドリーム・ベイビー」、64年「オー!プリティ・ウーマン」など。<4年間で22曲がヒット・チャート入り>

 アメリカではすでにビッグ・アーティストであったが、どういう理由からか?日本へは3年遅れの641月に「カムバック・トゥ・ミー」<この曲は日本だけのヒット>が紹介され、ラジオのヒット・パレードを突破口にして、ロイの高く澄んだ美しい歌声に火が付いた。<筆者は642月頃、日曜AM1000~「キング・ミュージック・デイト」というラジオ番組で知って、いきなりシビレた。>

 ビートルズたちに兄貴と慕われ、70年代のアメリカの若きロック・スターたちにも尊敬され、まさに偉大なという意味のミスター・ビッグ・オーと愛称され親しまれた。

 しかし大成功の最中の66年に、奥さんのクローディットをバイク事故で亡くし、加えて68年には自宅の火災で3人の息子のうちの2人を失い、黄金時代から一気に不遇の時代へと人生が急転換してしまう。この数々のアクシデントの悪夢とショックから脱却すべく、一時期イギリスへ渡って活動したり、孤高のロックン・ローラーと評されながらも頑張って勢力的にライブ活動を続けた。しかし60年代後期と70年代全般は努力の介なくヒット曲も出ずにロイは過去の人??

 しかし80年代を迎えて彼の運が急上昇!再びロックの世界へ蘇ったのだ。

1980年、映画「FOADIE」にためのエルミー・ハリスとのデュェット曲「ザット・ラヴィン・フィーリング」がグラミー賞を受賞。82年ヴァン・ヘイレンが「オー!プリティ・ウーマン」をハード・ロックでカヴァー・ヒットさせる。この頃、ブルース・スプリングスティーンが、ロイから多大な影響を受けたと語っている。

 そして亡くなる2年前の86年、映画のディヴィット・リンチ監督が「ブルー・ベルベット」の中で1963年のヒット曲「イン・ドリームス」を採用して話題となったり、急にロイの身辺が、他のアーティストたちによって賑やかになり、表舞台へ再登場! 871月には「ロックの殿堂」に迎え入れられ、4月にはイギリスのヴァージン・レコードから再録アルバム「イン・ドリームス」発売。8月からは本格的な全ツアーをスタートさせた。51歳の再スタートだ。

 このツアーの成功を受けて930日、ロスのココナッツ・ホールにて、バッキング・メンバーに、ジェームッス・バートン、トム・ウェイツ、エルヴィス・コステロ、ジャクソン・ブラウン、J.D.ザウザー、ブルース・スプリングスティーン、ロニー・タットなど当代の錚々たるメンバーを従えた「ブラック&ホワイト・ナイト」というコンサート・ライブが開催された。(ライブDVD発売)

 続いてイギリスのヴァージン・レコードから、久しぶりのオリジナル・アルバム「ミステリー・ガール」の発売が計画される。<ジェフ・リン、トム・ペティ、K.D.ラング、ジョージ・ハリスンもアコギで参加。死の直後にリリースされて大ヒットアルバムに。「カリフォルニア・ブルー」、K.D.ラングとのデュエット曲「クライング」などがおすすめ!

 88年に入って、ロイの音楽家としての運命がグンと良い方向へ立ち上がってきた。ウエスト・コースの名うてのプロデューサー、ジェフ・リンが中心となって(キッカケは、ジョージ・ハリスンのシングルB面にオリジナル曲が必要となったことによる)覆面バンド「トラベリング・ウィズベリーズ」が誕生。 

 メンバーはジェフ・リン、ジョージ・ハリスン、ボブ・デュラン、トム・ペティ、ロイ・オービソンの5名だが、各アーティストの所属レコード会社が異なる関係上、全員が「ウィズベリーズ家の兄弟」という設定で実名を伏せて(全員がサングラスをつけてボクはジョージではなく、オレはデュランではなく)アルバムを創ったのであった。

 そんな関係でプロモーションは行われなかった、にも係わらずこのアルバムは6週連続3位(89年のグラミー受賞)とセールスは好調であった。

 ところが、ところが「トラベリング・ウィズベリーズ」のアルバム発売間近の88126日に、ロイは生き残った独り息子と母親が暮らす実家へ遊びに行き、大好きなリモコン飛行機で遊んだりしてくつろいでいたロイは、突然心臓発作で倒れ帰らぬ人となった。(70年代終わり頃に心臓の手術をやっていた)享年53歳。

 まるでジェット・コースターのような運命を歩いたロイ・オービソン。ただひたらに自分独自の音楽を追求し、その成果はビートルズを筆頭に、多くのロック・アーティストに多大な影響を与えたことで照明されている。最後に、名誉とか富とかはあまり興味がないと言っていたロイの言葉「みなさん、僕を覚えていてくれて、ありがとう!」

 

「トラベリング・ウィズベリーズ」のアルバムは、ボリューム・ワン発表後に、ロイの死という不幸に見舞われたのでボリューム・トゥスリーの発表は見送られていたが、最近、DVDとのボックス・セットを含めて発売されている。


 

 

1963年(昭38)6月

修学旅行はジャズ喫茶の

「銀座ACB」(東京)へ

 

 

1964年(昭39)3月

しばらくは会えないので

 

  僕は、328日に東京へ出発することになっていたので、3月に入ってすぐに報告がてら一番気のあう従兄(母の姉の長男)に会いに出かけた。勲ちゃん22歳で、国鉄の機関車SLの運転手をしている。

4月から就職した食品会社の東京勤務で、しばらく会えないしさ

東京で落ち着いたら、夜間のデザイン学校で勉強するから

「おう、俺もチャンスがあったら東京へ出たかったなでもなかなか東京へはな。」

 大学へ行くために東京へ出て行けられる人は少数で、札幌の地元で就職か、または専修学校や大学へ進学する人が大半で、地元の親元生活者がだんぜん多い。僕も札幌で就職するつもりが、運よく?件(くだん)の会社が「この春に、本社が札幌から東京へ移転するから出てこい。」というとになったのだ。

「お前の家は、母さんひとり弟ひとりだからな、一生懸命に頑張ってさいつかは帰ってくるんだろう?」など、先輩兄貴としての意見を聞かせてくれたりして僕はいずれ故郷に錦を飾るつもりを秘めて、彼の話しをしっかり聞いた。

 おばちゃんが台所から大きな声で「あんたたち!ドーナツできたよ!」と自慢の手づくりドーナツを、おやつに出してくれた。ドーナツをほおばりながら僕は「暖かくてのん気な環境もこれでおしまいか」と思うと、一瞬寂しさが込みあげてきて、ちょっと悲しくなった。

「ところで勲ちゃん、ビートルズって知ってる?」と話しかけてみる。

「お~、最近騒いでる奴らか?」

「うん、イギリスの4人組の

「聴いたことないけど、随分人気なんだってな。いいのか?」

「レコード持ってきたけど聴いてみる?」

従兄はクラシックとジャズのファンで、すでに最新のステレオを持っていた。

 僕のは古い電蓄でスピーカーはひとつだから、彼の音とはかなり違う。特に最新ステレオには 左右分離とエコー装置がついていて、音の響きと広がりはまったく違うのだ。そのステレオの音で聴いてみたくて、ここに遊びにくる時には、いつも何枚かのレコードを持ってくる。彼もそれをいくらか楽しみにしていた。僕はビートルズの「抱きしめたい」と、最も新しい2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」、そしてヴェルヴェッツの「愛しのラナ」を掛けてみる。

「どう?」

「う~ん、うるさくないのかお前ら、こんなのがイイのか?」

………?」

「この人たち、いま世界中ですごいんだから!」

「俺は、いいわ!」とあっけない意見。

それ以上、彼とのビートルズの話は進まなかった。

 この時点で東京への期待感と、家族や友達と分かれてしまう寂しさの割合は、37くらいか。出発まであと25日間しかない。その前に多くの人と会っておきたいのだが