高校生時代/1

 

 

左の写真は、現代にも売られている組み立てキットです。電波の受信が弱いので、常にダイヤルに指を当てて、耳に神経を集中させて聴いてましたから、疲れました。

小さなゲルラジオから

 

 “ゲルマニウム・ラジオ

  ご同輩の方々、この単語を頭のどこかに記憶してたでしょ!

   昭和三十年代の一時期に、一度はこれでラジオを聞いたことがあるはずです。トランジスタ・ラジオではなく、片耳イヤホンでしか聞けないカンタン構造の小型ラジオ。

それがゲルマニウム・ラジオ

 用語解説によると、ゲルマニウムという素材は、戦時下の1941年にドイツで開発された

ゲルマニウム・ダイオードという金属元素で、半導体やトランジスタの製造に利用されたとある。電気を使わずに、ゲルマ鉱石が微弱な電波をキャッチするのだ。

(近年、ゲルマ温泉とかゲルマ肩凝りパッドなど、商品名やキヤッチフレーズなどに

たまに登場するがその効用はいかがなものか?)

 このゲルマニウムを使ったラジオは、日本では1955年(昭和30年)に売り出され、58年頃に小学校での理科実験教材用ラジオ・キットとして子供の間に短期間に急に広がったらしい。そんな背景があって、誰もが何となく知っている…”いう、不思議なものなのである。ぼくらにとっては、デザインがトランジスタ・ラジオもどきで、自分だけのちょっと大人っぽくてカッコいいオモチャであった。

 ぼくの場合、オフクロが家の中で洗濯物を干すために、梁に渡した針金にラジオのアンテナ線をくっつけて、イヤホンから入るかすかな音を楽しんだ。

音楽を楽しむという高度なものではなく、何十秒か聞こえたと思ったら、すぐにジーッ!ブォー!シャー!と雑音が入るので、ダイヤルに常に指をくっつけながら、微妙にチューニングしつつ、神経を集中して聞かなければならないのである。ズ~と緊張して聴き入るので神経が疲れる!そして深夜には中国語や韓国語が勝手に乱入してきて、せっかくのアメリカン・ムードをぶち壊すのであった。

 ある時、とぎれとぎれに聴こえてきた、とてもアメリカンな大人っぽい曲はじめて聞く明るくていい音楽!これが、横浜からのラジオ関東の番組「ポート・ジョッキー」(DJは、故関三夫さん)で、そのテーマ曲は「ビリー・ヴォーン楽団」が演奏する「浪路はるかに」だった。このイントロは、雑音まじりながらも、ぼくの身体に極めてスムースに入り込んできた。軽快な南国サウンド(ハワイアン)のアルトサックスは、波間を漂うように心地よい。加えて、DJの落ちついた知的な語り口が、グッと大人の世界を醸し出していた。

 中学1年生の頃、これがラジオの洋楽番組にはまる最初の頃のキッカケだったと思う。

 ゲルマ・ラジオは、いつの間にかどこかへ姿を消えて、この程度の記憶しかないが、この小さな物語はヤケに懐かしい。

 その頃、家族用の柱の煤けたラジオからは、1950年代末にアメリカで流行していた映画音楽や大人向けのポップスがたくさん紹介された。

 日本では映画音楽もロングラン・ヒットした、ヴィクター・ヤング楽団「エデンの東」。長身でスマートな映画俳優、アンソニー・パーキンスが唄ってヒットした「月影の渚」。ドイツのベルト・ケンプフェルト楽団の「真夜中のブルース」。ドリス・デイの「夜は楽しく」など「あ~、なんて艶っぽいんだろ~。これがアメリカなんだね!」中学生のぼくには、すぐに手の届きそうにはないとても贅沢な大人の世界がいっぱいだった。

 

ビリー・ヴォーン1919年生まれ。ケンタッキー州ボーリングリーン出身。52年にドット・レコードからデビューした。「浪路はるかに」(57年)「星を求めて」(60年)「峠の幌馬車」(61年)「メキシコの真珠」「真珠貝の歌」(65年)などのヒット曲がある。アーティスト、編曲者、楽団指揮者、ソングラター、さらにゲイル・ストームやパット・ブーンのプロデュースなどに多彩な能力を発揮し、ドット・レコードの輝かしい歴史に貢献した。1991926日に72歳で没。

●1960年当時、ステレオでレコーディングされたシングル盤はまだあまり出回っていない。私が最初のに手に入れたステレオ盤は「浪路はるかに」が収録された33回転のビリー・ヴォーン楽団の四曲入りEP盤。左右にハッキリと分離されたアルト・サックスとエレキ・ギターのサウンドが、自分に向って扇状に広がってくる音響には格別なものがあった。

ちなみに、トランジスタ・ラジオは、19558月に東京通信工業<現:ソニー>が開発して、「日本の技術ここにあり!」で世界的にも大きな話題になったし、このニュースで、ぼくらの国際的意識もワン・ランク・アップした。そういえばその後、高校二年生になって、ぼくは、アメリカ人との文通用に、自分の写真のバックに、大通公園西7丁目にあた“SONYのカンバンを入れたりした。

 


 

僕は根性がありません

 

 中学生と高校生時代に、主にレコードが欲しいための小遣い稼ぎでアルバイトを何度か経験しています。

 何度かという意味は、辛くて逃げ帰ったアルバイトについては、それはいつどこで、どのような仕事でとハッキリ記憶しているのだが、さほどは辛くなかったであろうと思われる、その他のバイトの記憶は一切ない。

 “可もなく不可もなく”という程度では、人は記憶しないものなのでしょうね。

 その数少ないバイト経験の中で、辛くて逃げ帰ったことが2回あります。

 

 ひとつは中学生時代<1960年(昭35)の夏休み>

 母親の知り合いのルートで探してもらった、琴似八軒の農業試験場でのアルバイト。

 農機具倉庫の片隅に山と積まれた若稲の束。その15cmほどに育った稲を、寸法が定められた物差しで測ってABCDEの5段階くらいに仕別けするという、単調な仕事なのですね。稲の生育ぐあいを調べるための分類作業です。期間は7日間の予定。

 朝から夕方まで薄暗いガランとした倉庫にたった一人なんです。

 昼食は母親が弁当かオニギリを持たせたので、外界と接触するのは昼食後の休み時間に一人で周辺を散歩する程度です。正午前と午後3時頃に担当のオジサンが、「どうだい、調子は?」って様子を見にくるだけで、後はひとりぼっちで淡々と作業をするだけ。

 一日目は始めてなので、作業を間違えないように少し緊張しつつ完了。二日目には壁際にネズミがチョロチョロ出ましたが、こんな感じなのね…で何とか問題なく過ごす。

 しかし三日目には、作業が単調なこともあっていろいろ考え始めたのでした。

 このような単純作業を一人でやってる孤独感というのは、僕は辛いのですね。(2人でオシャベリしながらやっている情景と、比較連想してみてください。)

 2日程度なら「あと1日だ、ガマン!」の勢いで終われそうですが、あと4日間も?…という絶望感。小遣い稼いで欲しいレコードを手に入れようという希望は、三日目で萎えたのでした。

 ついに四日目の朝には足が動きませんでした。「もう行かない!(行けない)」。

 そこで幾つか考えました…

 わざわざ母親が誰かに頼んだその人に迷惑をかけること。仕事先のオジサンの困り顔。事前連絡なしで中途半端にやめるという、自分自身の挫折感などね。でも…ガマンでできずに無断欠席、敵前逃亡しました。

 母親から叱られましたよ「そんな気の弱いことで、どうするんだ!」って。

 でもイヤなことはイヤだったのです。

 ただし3日分のアルバイト代は母親経由で届いたんです。農業試験場のオジサン、スイマセンでした。

 

 ふたつ目はですね…

 高校生時代<1962年(昭37)の夏休み>

 琴似発寒川の川淵にあったスレート工場のスレート干しでした。

 とにかく暑い夏の炎天下の作業です。工場で仕上がった畳サイズ(90×180)の湿ったスレート板を前後2人(たしか同級生)で持って、屋外のだだっ広い広場に並べて干すという作業。

 炎天下の10時ころに搬出し夕刻4時ころに工場内に収納するのですが、とにかく太陽が暑くて暑くて!もちろん帽子をかぶっているのだが頭がボ~とするのです。高校生で体力はあったはずだが、暑さが身体に堪えて、この場合は体調を崩して敵前逃亡しました。

 

 この夏にイタリア系の男性歌手テディ・ランダッツォが歌った「ワン・モア・チャンス」というポップスがヒットしていて、好きな曲でしたからズーッと口ずさんでいました。このアルバイト体験と「ワン・モア・チャンス」が頭の中で重なっていて、いまでもこのアルバイトの思い出と一体になっています。

 ということで、僕は基本的にガマンの沸点が低いというか、ガマン度が弱いというか根性がないのですね。このことは僕の体質の中にいまも残っています。

 ただし現在はいくらかの人生経験と学習をしているので、イヤなこと危ないことは事前に察知し事前にお断りするなどしますが…。

 そこで得た教訓としては、自分がイヤなことは他人もイヤであろう…と考えること。自分がイヤなことは他の人も同じであろうから、一方的に強要してはいけない…とかね。まず相手の状況を把握して…子供時代とは違いますからね。

テディ・ランダッツォ

   「ワン・モア・チャンス」

TEDDY RANDAZZO

 

 1937年、ニューヨーク生まれのイタリア系移民の子。1952年にスリー・チャックルズの一員となり音楽の道へ。57年にソロになり60年に「嘆きの道化師」(44位)がヒット。63年には「Big Wide World」がヒット・チャートに入っている。その後ドン・コスタのレコード会社に加わり、ソング・ライターとして、リトル・アンソニー&インペリアルズの「ゴーイング・アウト・オブ・マイ・ヘッド」などを手がけた。40年代のナツメロやスタンダード曲をユニークなアレンジでポップ・ソング化して
歌うことは当時多くの若手歌手がやったことだが、彼のアレンジ・アプローチも大変面白い。

 1962年に日本ではじめてヒットした「ワン・モア・チャンス」「いかないで」は、日本の藤木孝の日本語カバーもヒットした。

 その他、アラン・フリードの1956年の映画「ROCK ROCK ROCK」にも出演。ここでは、スリー・チャックルズ時代の歌「ザ・スィング・ユア・ハート・ニード」と「ウォント・ユー・ギブ・ミー・ア・チャンス」の2曲が収録されている。他にジェーン・マンスフィールドの映画「女はそれを我慢できない」にも出演している。

 

 

 

昭和の映画館

 

 映画が娯楽の中心であったその昔、映画館はそれぞれの街の繁華街の真ん中にあって、通りには「パチンコ」と「スマートボール」「かき氷り」「レコード」「本」「お焼き」「ラーメン」「喫茶店」「食堂」などの店がひしめき、休日を多いに楽しませてくれていた。

 1955年(昭和30年)の札幌に映画館は22館(軒)あった。その7年後の1962年には47館(軒)に増えていたから、この頃が映画の全盛であったらしい。札幌中心部の映画館は「松竹座」「札幌劇場」「名画座」「帝国座」などが封切り館で、中でも「名画座」は札幌軟石で積み上げられた階段を昇る洋画専門劇場として、話題の洋画作品が上映されて人気があった。また丸井デパートの7階にあった映画劇場はニュース映画を主体に、アニメやアメリカのB級映画が安くて見れて、ここも人気があった。僕は丸井さんのレコード売場に立ち寄ってから、この映画館で映画を見て帰るのが楽しみであった。

(後年のオカルト映画「エクソシスト」にそっくりな、その種類のアメリカ製B級映画は、1950年代~60年前後に屋外の大スクリーンを車の中で見る「ドライブ・イン・シアター」用に、安上がりに製作された音響も映像もハデなアクションが売りの映画のこと。※上部の写真参照)

 ちなみに6286日の映画案内欄の北海道新聞の記事には、映画「ウエスト・サイド・ストーリ」に出演した男優ジョージ・チャッキリスが来日したというニュースとマリリン・モンローの死を伝える記事が同時に小さく載っていた。

 いま都会では複数の映画館がワン・フロアに集合した「シネマ・コンプレックス」というスタイルになっている。時代とともに映画館もずいぶん変わってしまった。

 

 

 


アメリカの女の娘と文通

 

憧れの国は とにかくアメリカだった

親友のお姉ちゃんは短大生で 

あの時代のアメリカのハイティーン向け

ファッション雑誌「セブンティーン」を持っていた 

それをパラパラッと開くと ゾクゾクするほどに

魅力的なカラー写真のモデルたち 

眩しいばかりのアメリカの女の娘ファッションの

美しい写真が 目に飛び込んでくる

ああ これは夢の世界だ

 

どのような経緯(いきさつ)であったのか? 

1962年頃に日本と外国の高校生たちとの

海外文通が流行った

僕たち何人かのミーハー・グループは 

英語はからっきしダメなのに 

その流行にさっそく飛びいて 

それぞれが見よう見まねで

一通の手紙を1カ月ほどかけて書き上げて 

船便でアメリカへ送った

 

春が過ぎて

そのことを すっかり忘れかけていた夏休み前に 

やっと返信が届いた

アメリカから着いた その便せんを手にした瞬間 

僕はまるで映画の主人公になったように興奮した

 

赤と青のななめストライプで縁取りされた 

エア・メール封筒 

その中のカサカサ便箋に

濃紺色の太っといボールペンで ザックリ書かれた 

僕の名前 Dear  Masaki 

忘れられない甘い思い出だ

 

何回かの文通で チヤガール姿の 日系3世の女の子

Miss Darlene Okamuraから

ブローニー版カラー写真が送られてきた!

 

僕が送った写真は  ハーフ・サイズ・カメラの

オリンパス・ペンで撮った

かなりボケ~た モノクロ写真だった

 

 


 

 

ケネディ大統 暗殺

 

アメリカで信じられない事件が起った

それは とても寒かった19631122

アメリカ時間 昼の1230

 

僕らの憧れでもあった  

アメリカのケネディー大統領が暗殺された!

 

その悲劇は 日本時間では23日の早朝 3時30分に

テキサス州ダラスで起った

 

僕はケネディーが殺されたことを朝早くラジオで知った

追って同時に 新聞の朝刊一面に ドッカ~ンと白抜きで

「ケネディー大統領暗殺さる」の特大文字

学校にでかける朝には ラジオが連続で

その状況を随分と重い調子で伝えていた

バスの中では大人たちが

遠慮なく 誰にも聞こえる声で 

それぞれの驚きを話している 

僕はとても悲しかった

 

一点の曇りもない 青い空のイメージ一杯の 

あの時代のアメリカを象徴していた 

若き大統領 ジョン・F・ケネディー

「誰がそんなことを

 

それから さらに次々と不思議な事件と

キング牧師、ケネディの弟・ロバート・ケネディと

陰惨な暗殺が続くことになる

その謎の多くは いまも解けていない

 

 

 

 

「カブトムシ現わる!

     ケネディ米大統領暗殺のニユースと同時に

 

 リバプール?リバプール・サウンド何それ!?

「ビートルズって言ってた

  その情報は、誰もが何が何だか解らないままに、まずは音楽好きの子供たちにものすごいスピードで伝わった。

  ケネディ大統領が暗殺された直後の、1963年の11月下旬だった。

 この頃から、20世紀後半の社会に大きな影響を与えていく、ビートルズたちのエネルギー&ブリティッシュ・パワーが炸裂しはじめる。

 

<初冬の男子高校の、朝の教室にて—>

 石炭がゴーっと音をたてて燃えている、でっかいダルマストーブを囲んで、早出の生徒数人が、昨日の夜のラジオ番組から得た情報を披露していた。

「イギリス」「リヴァプール」「ビートルズ」「かぶと虫」「マッシュルーム」???

 「リヴァプールってどこにあるんだべ?」

「俺は知らない」

「イギリス地理で習ったか?

「マッシュルーム・カット?きのこ形のもっこりした髪型らしいぞ?」

 そんな断片的な単語だけでは、詳しい内容はなかなか伝わってこないが話し方が興奮していたから、みんなが強い興味を覚えた。これが、リヴァプール・サウンドのザ・ビートルズの情報に触れた、最初の記憶だ。

 この頃、ラジオで紹介されていた新しいポピュラー音楽は、ピーター・ポール&マリーの「花はどこへいったの」やジョニー・ソマーズの「ワン・ボーイ」とか、ボビー・ヴィントンの「ブルー・ヴェルヴェット」。そしてジョニー・ティロットソンの「プリンセス・プリンセス」この頃になると、アメリカのポップスは結構甘ったるくなっていてすでにボクらの気分はそんな音楽に正直退屈していただ(大学ノートにラジオ・リクエスト・ランクのデータをコツコツ記入しながら、まぁ聴いてはいたけれどね!)

 冬休み中のボクは、同じイギリス・ロンドン出身のビート・バンド、ブライアン・プールとザ・トレメローズの「ドゥ・ユー・ラヴ・ミー」という曲にはまっていた。そして一日中、そのシングル・レコードを聞き続けていた。それこそレコードの溝がすり減るくらいにこの曲も「リヴァプール・サウンド」と紹介されていた。

 明けて19641月の三学期には、「ビートルズ」はクラス共通の話題になっていた。と同時に、日本でのファースト・ヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」がチャートの20位あたりに顔を見せ、矢継ぎ早に「抱きしめたい」が発売された。(日本でのレコード・デビューは東芝のオデオンからで、25日に「プリーズ・プリーズ・ミー」、

210日に「抱きしめたい」が発売された。)

 勢いのあるロックン・ロールを、四人が一気にシャウトする。「オ~ッ何だコリャ?」という感じ。自由奔放&開放的な(年をとったせいか?いま聴くと、あの頃の興奮が即座に蘇ってはこないのが残念。そんなもんか!)モノラルの荒々しい音の塊りが、ドッスーンと全身にぶつかってくる。

 さすがに彼らのデビュー・インパクトは、ただものではなかった。ジョージ20歳、ポール21歳、リンゴとジョンは23歳。そして、ボクは17才だった。

 


リヴァプール・サウンドの衝撃波

 

   1963年の11月初冬の頃、いきなり僕ら高校生たちの間に、イギリス/リヴァプール/ブライアン/トレメローズ/かぶと虫/マッシュルーム?などなど、今までに聞いたことのない言葉が矢継ぎ早に伝わってきた。

 イギリスで新しい音楽が大人気!「それって、何!なに!ナニ?」断片的な言葉と情報の濃薄が今までになく興奮ぎみであったことが、時代の急変を予感させていた。

 当時の高校生の人気音楽は、大別してTV派「夢であいましょう」「シャボン玉ホリディー」などのTV番組から聞こえてきた、坂本九とパラダイスキング/飯田久彦/中尾ミエ/弘田三枝子たちの和製ポップス。舟木一夫「高校三年生」、橋幸夫と吉永小百合「いつでも夢を」、小百合ちゃんとマヒナの「寒い朝」などの歌謡曲。

 高校生は出入りできなかったが、街中のジャズ喫茶や、平尾昌章/山下敬二郎/ミッキー・カーチスたち日劇ウエスタン・カーニバル系の和製ロカビリー。(札幌では旧丸善ビルの地下に「ロータリー」というジャズ喫茶があり、森山加代子はここでスカウトされた。そしてちょっと前まで洋楽は、すべてジャズと表現されていた)

 そして洋楽ファンたちは一般ラジオのポップス番組から。さらにマニアックな彼らは米軍千歳基地から発信される進駐軍用極東放送のラジオ電波が、唯一の新しい音楽の情報源だった。

 196263年頃は、大甘のアメリカン・ポップス(アイドル系)が全盛で、イギリスのポップスといえば、イギリスのプレスリーで売っていたクリフ・リチャード(と彼のバックをやってたインストのザ・シャドウズ)、インスト・バンドの「テルスター」トーネドース、「霧の中のジョニー」のジョン・レイトン、女性はヘレン・シャピロくらいで、まさかイギリスから新しいポップスが、ここでド~ンと出てきて世の中まで変えてしまうとはもちろん誰も予測はしてなかった。

 アメリカからはいつものように、ポール・アンカ/ニール・セダカ/コニー・フランシス/ベンチァーズ/ブレンダ・リー/ジョニー・ソマーズ/ポール&ポーラ/PPM/ケイシー・リンデンたちが湯水のようにつぎつぎと、新人の楽曲や音楽も楽しく、同時にワクワクさせる映画も多数紹介されていた。

 僕は、朝6時から始まるHBCラジオ「朝のリクエスト」から、夜中12時頃までラジオや自分の電蓄で音楽を聞いた。特に、PPM(ポーター・ポール&マリー)や、ドミニクのスール・スーリールブラザース・フォーたちこの63年にヒットし始めたニュー・モダン・フォークの世界は「もうたくさん!」になっていて、イギリスからの新しいロックン・ロールにすぐに飛びついた。

 僕の場合、リヴァプール・サウンドの新しい音楽に最初にはまったのは、ビートルズではなく、ブライアン・プール&ザ・トレメローズ★の「DO YOU LOVE ME」(631120日発売)だった。これが僕のカラダの中で一回転ししっかり巣くってしまったのである。この曲はアメリカの黒人R&Bグループ、コントゥワーズ(モータウン)の62年スモール・ヒット曲で、それまでのアメリカン・ポップスには無い、荒削りで思いっきりがよい元気な曲だった。日本ではちょっとの差でこのブライアンたちの曲が、ビートルズ・デビューの露払いのような役割を果たした!と、僕は思っている。

 64年の新年が明けると、ワーッと塞きを切ったように、ビートルズ/マッシュルーム・カット/抱きしめたい!などの、ビートルズについてのかなり正確な情報が伝わってきて、彼らの写真(ミュージックライフから?)も目にした。僕の場合、彼らの最初の印象はかわいい!だった。早速、シングル・レコードの日本デビュー盤「抱きしめたい」(6425日発売)を買い込み、カバンに入れて持ち歩いた。4才年上のイトコにも奨めたが、なぜかこの時は、ソッポを向かれた??? 2月下旬。高校を卒業して、東京に出て行く30日前だった。これが札幌での「ビートルズ物語」との出会だ。

 

【ビートルズの世界デビュー】

●1963年時点で自国イギリスは勿論、ヨーロッパ公演(ドイツ/スエーデン)で熱狂的に指示されていた。

アメリカからのデビュー/1964211日と12日の初コンサート。16日にエド・サリバンショーに出演。22日帰国。

●196444日のビルボード誌のチャートで、ビートルズ曲が5位~1位を独占。(当時ラジオ小僧の僕たちのとっての感想これって「奇跡&天文学的快挙」※その後、もちろん誰も成しとげはていない)

ちなみに順位はキャント・バイ・ミー・ラヴ ❷ツイスト・アンド・シャウト  シー・ラヴズ・ユー ❹抱きしめたい ❺プリーズ・プリーズ・ミー

     

【僕の体験的で勝手な推測】

 彼らの「リヴァプール・サウンド」が、アメリカの子供たち同じように、日本人の僕らにもストレートに飛び込んで来た理由は、どうしてだろう?

 1950年代の中期に発生した黒人のロックンロール(リトル・リチャード/チャック・ベリー/ボ・ディドリー/ロイド・プライス/ラリー・ウィルアムスなどの音楽)は、アメリカ人に限らず人種に関係なく、戦後生まれの僕たちはもっともっと聞きたかった。それは当時のフィリッピンの若者たちも同じハズなのだ!(身体がそのようなノリの音楽を欲していた!)しかし、アメリカでは黒人のロックンロールは禁止迫害され、白人のエルヴィスまでもが非難された。その時代にはアメリカ独自の人種差別があったり、さらに白人ロックンローラーたちが急死したり事故にあったり、アラン・フリーッドのペイオラ事件が発生したりして、本場アメリカでは58年頃からロックン・ロールは急激に萎んでしまった。日本は戦後のGHQ(アメリカ白人たち)が監理した国だからやっぱり、黒人のロックンロールは聞かせたくなかったのだろうな(GHQの方針)と僕は勘ぐっているのだ。(そんなに血が騒ぐなら白人のカントリー&ウエスタン&ロカビリーならいいよ!って)

 同じ白人社会でもイギリスでは人種差別がそれほどでもなく、政治的にもアメリカの影響を受けていないこと、そして50年代にリヴァプール港とニューヨーク港との貿易通称(港湾)がさらに活発化し、その関係でアメリカ人の船乗りが黒人・白人のロックンロールのレコードをリヴァプールに持込み、港町のバーなどに置いて帰った。などの社会背景を通してロックンロールが偶然リヴァプールで生活していた、ジョンやポールたち(その他の多くの若者たちにも)の耳に入り身体に染み込んで行ったのであろう。だから、アメリカの若者たちよりも早くから純粋に(金になるから!ではなく)黒人サウンドをオープンに楽しんでいたのだろう?と想像する。本場のアメリカ人よりも、イギリス人のほうが「黒人音楽」をオープンに自由に楽しめて聴けた。その結果「リヴァプール・サウンド」の誕生が実現し、その後の「ブリティッシュ・インベンジョン」から「ロック時代」へと、当時の若者の体力とエネルギーに反応した音楽の時代に、移り変わっていったのである。

 

【ブライアン・プール&ザ・トレメローズ<南ロンドン出身>のこと】

 

  1962年の11日にビートルズはデッカ・レコードのオーディションを受けている。その時もうひとつのバンドもオーディションを受けた。そのバンドが「ブライアン・プール&ザ・トレメローズ」だった。デッカは、演奏をうまくまとめてすぐデビューさせられそうなブライアンたちを合格させ、ビートルズを落選させた。(この時点のバンド名は、ビート・ブラザーズとかシルバー・ビートルズとか)この一件では、ミューズ<音楽の神>の判断は正しかった。彼らのヒット曲は、アメリカの黒人R&Bグループの「アイズレー・ブラザーズ」のカヴァー曲「ツイスト&シャウト」や、同じく黒人R&Bグループ「コントワーズ」のカヴァー曲「ドゥ・ユー・ラヴ・ミー」(639月に全英1位の大ヒット)。10月にはデーブ・クラーク・ファイブもカヴァー。他に「サムワン・サムワン」「キャンディ・マン」などをリリース、日本でも発売された。その後グループはブライアンが独立して解散。残ったトレメローズが、「サイレンス・イズ・ゴールデン」(沈黙は金)でワールド・ヒットを果たす。


 

セコハレコード

 

  セコハンとは、SECOND HAND(セカンド・ハンド)新品中古のこと。

 「参考書が欲しい」といって母からお金をもらって、学校帰りにブラッと都心の本屋にでかける。まっすぐ本屋に行けばいいのに丸井デパートの5階には、本とレコード売場が同じフロアにあって、レコードも見たいから(どっちかっていうとレコードコーナーが先!)足が勝手に自然にそちらへ動いて行く。好きなもの、美味しいものははじめに食っちゃう!という欠陥性格?からか

一瞬の差で、ついつい参考書より先にセコハン・レコードのエサ箱に手が伸びてしまうのだ。

 僕の一カ月の小遣いは500円。ちなみにラメン3050円、床屋代200円、封切り映画200円、新譜のシングル・レコードは330円でセコハン・レコードは100円だが、安くなっているといっても子供が買うには結構勇気が必要だ。

 セコハン・レコードの中には、たとえばポール・アンカの「ダイアナ」とか、コニー・フランシスの「渚のデイト」とか、ニール・セダカの「オー!キャロル」などの、誰もが知っている有名ヒット曲は入っていない。

 だから一般にはヒットしていないが、自分なりのいい曲をその中から探し出すのが楽しくてエサ箱をあさるめぼしいレコードが出てくると「やった~」と大声が出るほど嬉しい。

 僕の前に先客がいて、その人のレコードをチェックする手さばきが慣れていたりすると、同穴のムジナ根性で「何を選んだのかな?」とやたら気になったりする。 

 左右交互に両手でサッサッサッと手早く一枚づつジャケット・デザインを目に入れつつ、曲名とアーティストを同時に確認して、これっ!?と思ったレコードは小脇に挟んで、8枚ほどの中からアレコレ迷いつつ( 限られた小遣いだから) 一枚だけを厳選する。そして残ったお金で参考書を買うという具合だ。

 今日は、ビリー・ヴォーン楽団の「恋のメキシカン・ツイスト」か、ジョニー・ディアフィールドの「悲しき少年兵」など、あれこれ迷ったが結局はエレキギターの名手でシンプルで透きとおった演奏を聞かせてくれるインストルゥメンタル曲、アル・カイオラ楽団の「カチューシャ」を手に入れた。

 ただしレコードには、イジ悪くジャケットの右隅にパンチ穴が空けられていて

 それは正規物と差別されていて、ちよっと悲しい。