おふくろに満面の笑みを讃えさせた「あるモノ」
その「あるモノ」とは、日本ではじめて昭和30年(1955年)に発売された「自動式電気炊飯器」です。ウチの場合、発売されてからスグには買えなかったらしく、それから4年後の昭和34年(1959年)に登場しました。
ある日学校から帰ると、台所流し台横のステンレス台の上に、それはデーンと偉そうに飾られていました。「電気釜」です。一瞬、子供心にも「オ~!ウチも近代的になったな」と、とてもうれしく感激しました。
オフクロは、やっと買えた喜びを満面にたたえていました。その喜び顔はいまでも蘇ってきます。本人にとっては、それが自分の台所にある、ということが“革命的なこと”だったのでしょう。ボクは単純に、「これで好きな時にメシが食える!」みたいな…食べ盛りでしたから。ただ…蒔ストーブ時代のお釜だからできた、ちょっと固いオコゲからは、しばし遠ざかったのでありました。(ここで思い出しました、オコゲのオムスビ喰いたいです。炊きあがったアツアツのオコゲ飯に塩だけまぶして…こりゃ~本当のご馳走だわ!!)
昭和30年頃からはじまった朝鮮戦争の特需による「神武景気」で、東京などの大都市では「三種の神器」(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)が急激に家庭へ普及したのですが、札幌あたりではおそらくこれらは、昭和34年頃に(ウチに「電気釜」がきたころ)一気に普及したものと思われます。
同じ頃に登場した電気製品に「トースター」がありました。パンそのものは、生まれ育ちが欧米ですから(特にアメリカ的な…)トースターがある、トースターを使うことは、日本人のご飯の世界とは違ったライフ・イメージを演出していました。
当時のアメリカ製TVホーム・ドラマの「うちのママは世界一」とかの、アメリカ家庭のキッチン・ダイニングの情景には「トースター」が登場していて、ボクの場合は、それらは憧れを通り越して「戦争に勝ったアメリカと負けた日本の差」みたいな、ちよっとイジケたイメージで横目に眺めていた残像が残っています。
僕のなかでは、トースターはアメリカのイメージ。だから大人になってからパンを焼くトースターとしては使わないが、古道具屋で室内装飾用に、ボテッと丸いデザインの旧アメリカ製のトースターを買いました。
あれから50年の時間が経って、すでに今日ではあまり使われなくなった「トースター」。
その昔の新婚さんの朝食は、チィーンと鳴ってトースターから飛び出す“トーストと半熟タマゴ。ドレッツングかマヨネーズのかかった野菜サラダという朝食セットは、ハイカラでモダーンな文化生活ができた家だったのです。
孔版クラブ
「孔版クラブ」の孔版とは、昔の学校でテスト用紙を印刷する「ガリ版」のことですが、クラブ活動でそのテスト用紙を刷るのではなく、ガリ版と謄写版で、絵(今でいう「イラスト)とか浮世絵を“ガリ切り”して印刷するのです。このめずらしいクラブは当時、琴似中学校にしかなかったと聞いておりましたが?…ある種の美術系クラブでありました。
謄写版印刷の世界をもう少し詳しく説明しますと…
ろう紙(うす紙にパラフィンやワセリンなどを塗った半透明のもの)これを鉄ヤスリの上にのせ、手で固定しながら「鉄筆」で「ろう紙」の表面に塗ってあるロウ部分を削り取るのです。「鉄筆」は文字専用の先が尖ったものと、面を削り取るための平べッたい鉄筆がありました。ガリガリと紙に塗ってある「ロウ」を削り取ってやると、その部分だけにインクが通って下の紙に印刷されるというもの。
1色であれば、ろう原紙は1枚(黒とか濃紺とか)でいいのですが、2色は2枚、5色の場合は5枚の原紙を切らねばならないという、面倒な作業をします。ボクたちは学校の文化祭での作品展や自分の年賀状を孔版で印刷してました。
この印刷システムが誕生したのは歴史が古く1893年頃に、アメリカのあのエジソンが原形を創ったとあります。アメリカではタイプライターの活字(アルファベットや記号)を、この「ろう原紙」に打ち付けてロウを削り沢山の枚数を印刷にかけるのですが、日本や中国では文字数が膨大にありますから、いちいち人文字づつ「活字」を揃えることができず、したがって好きな文字を勝手に手でガリガリ切って謄写版で印刷するということで重宝されたようです。
現在でも、電気などがないアフリカやアジアの小学校では使われているようですし、現在日本では一部の美術家がシルク・スクリーン方式の作品制作として愛用しているようですし、一般の愛好クラブもあるようです。しばらく前には、謄写版が進化したセットで、商品名「プリントゴッコ」として一時期人気がありましたが、現在はそれもなく、今はパソコンとプリンターでどんなに複雑な原稿創りでもサクッと簡単にできて、キーボードをパチパチとやって、あとはコピー機がスパーッスパーッと勝手に印刷しちゃていますが…当時は手でガリガリやって、一枚ずつ刷ってインクにまみれてました。このマイ謄写版をボクはいまでも大切に保管していますが、まったく使っておりません。今後どう利用すればいいのでしょうか…。
キリギリス穫り
日本歌曲の夏の歌
♩夏が来~れば思い出す~遥かな尾瀬 遠い空~♫
僕の場合は
♩夏が来~れば思い出す~三角山の 野っ原で~♫
小学6年生の夏休み。
3年前の昭和35年9月に父が亡くなってから、しばらくして母は病院の調理師として勤めに出た。
それからは、日常生活では急に管理者(親)のいない、自由で気ままな夏休みになってしまった。あまりにも自由になったため、夏休みは一人遊びまたは3歳下の弟との二人で過ごさしことになったが、幸い札幌の琴似山の手周辺は、三角山と発寒川に挟まれた森と林などの自然、そして畑・果樹園などに囲まれて、遊び場は“野っ原と川”であった。
野遊びでは、“キリギリス採り”が得意である。(いまでも)
ここで僕流の「キリギリス採りの極意」を伝授しましょう。
~別に伝授されなくてもいいでしょうが。まぁ、小さなお子さん(男の子)をお持ちのお父さんは、知っておいて損はないですよ!~
●基本的に魚釣りの要領です。
事前準備とポイントがいくつかあります。
【道具の事前準備】
①その辺の野っ原に生えている「1.3mほどのヨモギの枝」を下からポキッと折って、葉っぱをすべて手で削いで一本の棒にする。
②地べたや草むらでシギシギ鳴いている「3cm程度の小さなバッタ<餌>」を捕まえる。(これを捕まえるのが結構ユルクナイ)※餌には長ネギという人もいますが、食いつきはダンゼン、バッタだ。
③バッタの頭をちょん切る。(頭は捨てるが、長い足は胴体に付けておく)
④バッタの胴体を、ヨモギの先端に差し込む。次にヨモギの先端をカギ状に折る(エサが簡単に抜けないようにする。糸で胴体をくくってもよい。)
⑤キリギリスを捕獲したら入れておく「虫かご」が必要。
<道具の準備は以上>
【穫るための要領/ポイント】
■何はさておき、まずは肉眼でキリギリスを草むらから見つけ出すこと!
①キリギリス穫りの最大の敵は「音」。※カサッという小さな音だけですぐ逃げる。
彼らに最大限近づくために、足元がカサカサと音がしないような草むらを選ぶ。
②風下からソーッと近づく。(1mほどの距離まで)
③キリギリスを周囲の保護色(キリギリスと同じ緑か茶色)の中から肉眼で見つける。虫との距離感は耳も使う。(近づいたら目をつむって音の距離を予測する)
<音を立てるとピタッと鳴きや止むが、ジッとして音を出さなければ再び鳴きはじめる。キリギリスには「アレッ今のは勘違いだったんだな…」と思わせる、油断させる。>
※ここまで辛抱強く続くかどうか?がキリギリス採りの勝負。(見つかるまで平均30分は覚悟しておく)
■見つけたら…
④ヨモギ釣り竿のバッタの先端を、キリギリスの頭の触覚あたりへスムーズに近づける。近づけたら80%成功。
⑤キリギリスは2本の触覚で餌のバッタを探りつつ、即座にバッタに喰いつく。(恐ろしい程の食欲を示す。無我夢中という感じ)※タマには食欲のない虫もいる。それらはスゴスゴと離れていく。
⑥喰いついたら8秒ほど喰わせて安心させる。(彼の意識は餌だけに集中している。「お前そんなに腹減ってたのか」…という感じだ)
⑦落ちついて釣り棒をゆっくりと上(空間)に挙げる。彼は警戒して2本の長い足を踏ん張って足場から離れようとしないが、食い気には勝てないので、すぐに2本の足を足場から離して、空中で餌を抱き込む。
⑧完全に宙に浮いたら棒を引き寄せて左手でパクッと捕まえる。ここは急がない。(恐る恐るつかまない。つかんだ時、必ず噛まれて痛いが、問題としない。)すべての動作は一定にユックリ。これが肝心。
シーズンのピークは8月中旬のお盆あたりです。ぜひ、今年!または来年でも。楽しいですよ、
ドキドキして!文章を書いてるだけでも臨場感あふれていて……ああ疲れた。
捕らえたキリギリスは、自宅の庭か近くの野原に放してギーギー鳴くのを秋口まで楽しみます。
蛇! だ・だ・大嫌い
“蛇が好き”とか“嫌いじゃない”という人は尊敬に値します。
琴似山の手から三角山の山伝いに発寒川まで里山風情の、自然と遊べるすばらしい環境でした。
初夏からは桑の実・サクランボに始まって、盛夏には こくわ 、またたび・野いちご・ラクヨウきのこ、オンコの実、秋には山ブドウ・山栗・くるみなど(たまにはリンゴ園の…)自然の恵みを採集するのも楽しい遊びのひとつでした。
そして昔は、どこの野原にいつも目につくほど、蛇がたくさん生息していたものです。 その多くは“アオダイショウ”とシマヘビ”ですが、常時湿り気のある河原やカエルのいる沼地には“マムシ”も出ました。毒は持っていないが、子供であると追ってくるという“カラス蛇”という真っ黒な種類もいる(あくまでも噂)ようなのですが、実際にはその蛇を見たことがないので、それ以上詳しくは判りません。
僕は蛇に2回騙された経験があります。というか、勝手に見誤っただけの話しなのですが、その事件を紹介します。
その1
お盆の頃になると、野原に“野いちご”が真っ赤に熟れて群生します。ぼくは毎年アルミ製の弁当箱を持って、その野いちごを採集するのが大好きでした。野いちごをゆっくり煮詰めながら、途中でプツプツの種を除いてイチゴジャムにするのですね。(いまの時代ですと、ヨーグルトソーズにしても抜群にうまいです)
いつものように野いちごを夢中で摘みつつ、野っ原の真ん中にさしかかったとき、電気工事の電線修理に使う直径15cmほどの黒いビニール・テープが、落ちているのですよ草むらの中に。あれ?と思ってそのビニール・テープを拾おうとした瞬間、ス~と長くなって草の中に消えてしまったのが蛇でした。僕は瞬時に何が起こったのかが理解できずに「グェっ」と叫んで、野いちご入れた弁当箱を放り投げていました。蛇君がまん丸く“とぐろ”を巻いて寛いでいたんです。
その2
三角山の中腹に御堂(お宮)があります。
僕らガキ大将は、小さな子供たち6人ほど引き連れて「清水の次朗長一家だ~い!」などと空想しながら、ベルトに竹の刀を差して、馬の背の山道をチヤンバラごっこしながらその御堂まで行くのがお遊びでした。
2m幅の狭い山の背道を進むのですが、途中で幅5mほどある広さの道に差し掛かったところの先の通路の真ん中に、何と“1mほどの真っすぐな棒が落ちている”ではありませんか。小走りで駆け寄って、これまた拾おうした瞬間に、真っすぐな棒が真っすぐにものすごいスピードで脇の草むらへ逃げて行きました。僕はすっかり単なる棒だと思い込んでいたので、ここでも唖然としてしまったのです。後から知りましたが、蛇は朝早くには体温が低いので、土と太陽の両面から日向ぼっこをして体温を上げるそうです。
皆さんはこのような経験ありますか?
中学校での弁当持参
小学校のお昼は“脱脂粉乳とコッペパン”、プラス“肝油”が主役の「給食」でしたが、中学校になると「弁当」持参になりました。
1959年(昭和34年)あたりの食糧事情については…贅沢はできませんでしたが、三度の食事に苦労するというような貧困はゼロではなかったとしても、ほぼ解決していたと思います。
ただし現在と比較するとなれば、それは栄養バランスとかカロリーの面では、充分でなかったとは思いますが…従って余して捨てるようなことは一切ありませんでした。オカズもお米も、最後のひと粒まで残さずキレイに食べること!昔は、みんなが口うるさく諭されていたものです。
ボクの弁当箱は、当時大工さんが使っていたような…深さが4cmほどあるアルミ製のボテッとした古いタイプでしたが、その頃に新しく出た弁当箱は、深さは2cmほどで平べったくスマートになっていて、その分上から見た面積が少し大きくなっていて、側面に箸入れがセットになっているものでした。ボクはその弁当にとても憧れましたが、深さ4cmの愛用の弁当箱はガッチリ頑丈で、それを高校生まで使うことになります。
2年前に亡くなった「阿久 悠」さんの本、「昭和おもちゃ箱」というエッセイ集に「ランチジャー」というタイトルの一文があって、それは「弁当」から「ランチジャー」までの想い出話あれこれなのですが…その中に、戦後すぐの小学校時代の弁当について語っています。
「小学生だった頃の食糧危機時代は弁当どころではなかったし、中学生になって大方の子が弁当持参が果たせるようになっていたが、中学の弁当の時間になって、その光景はいささか異様なものであった。その異様さというのは、皆が弁当箱のフタを立てて、“つい立”のようにして弁当の中身を隠すのである。まだまだ白米だけのご飯とはいかない時代で、大抵の子供のご飯には麦が入っていた。中には麦のほうが多い子もいる。それを恥ずかしいと感じるのだろう。だから隠すのである。弁当箱のフタをたてるのは麦飯の子ばかりではなく、数は少ないが銀シャリの子もいて、その子もフタで弁当を隠す。こちらは恥ずかしいというより後ろめたさが主で、闇米を食っていると思われるのがイヤだったのであろう。麦飯の子に対する思いやりとか、遠慮の子がいたかも知れない。その時代の子供たちは、結構いろんなことに気を遣いながら生きていたのである。」
こういう内容の、その時代の描写なのですが、それから約15年後のボクらの時代にも弁当のフタを立てて見えないようにしていた女の子が結構いましたが…弁当の中身っていうのは、やはり恥ずかしい場合があったのでしょうね。もちろん、麦飯の子はたくさんいて、ボクも“7対3ぐらいの麦飯”でしたし、弁当のフタを開けたトタン、麦飯にカレーライスのみ!とかね…男の子は、特に恥ずかしいからといってフタで隠すようなことはあまりしませんでしたが。
ただボクは、“何種類かのオカズが同居しているノリ弁”とか“魚肉ソーセージ”を輪切りにしてご飯の上にキチッと並べた弁当には憧れました。ウチのオフクロはそういうシャレたセンスのない人で、フタ空けたら納豆だったり、塩シャケの切り身だけだったり、かなり乱暴な弁当(人)でした。因にオフクロは病院の調理係だったのにね!おかずのリクエストや、今日の弁当は旨くないっ文句いうと「まだ食べられるだけでもいい!」って怒られたものです。何人かは昼に家に帰ってご飯を食ってくるという子供もいましたから…まだそれぞれにいろいろな家庭事情があったようです。
そういえば…3月の何日か前は卒業式でしたね、今から48年前の琴似中学3年生の卒業式が終わって“最後のホームルーム”に、担任が英語の若い先生だった勢いで…教室を万国旗で飾って「アメリカン・パーティー」のようなことをやって、生徒がポール・アンカの「ダイアナ」をアコースティック・ギターで歌ったりして大騒ぎしました。後でその先生は校長に叱られたそうです、「そういう不良っぽいことをしてはイカン!」。ズーッと後でのクラス会で知りました。
自転車で茨戸へ「フナ釣り」に行く
中学校の同級生3~4名で、夜が明ける前にそれぞれの家を出て、自転車を漕いで茨戸方面の用水路まで「フナ釣り」に出かけるというお話です。
もちろん前日に、一日中天気がよいことを事前確認して、明日行くか行かないかを決定しておくのです。自転車行動なので雨の日は絶対行かない。“小雨が混じるでしょう”“夕刻には霧が出て寒くなるでしょう”も、行かないことの条件である。
その行程は…
前夜(ほぼ土曜日)に、竿と仕掛けを準備しておく。ウキ、ハリス、仕掛けなどを釣り小物ケースから出したり入れたり…これが楽しい。
おにぎり2食分と水筒も用意しておく。おやつ(甘いもの)…ガム、キャラメル、あめ玉など少しだけ用意。早めに寝て夜明け前の3時頃にゴソゴソ起きて、自転車で琴似本通りあたりに集合、行き先は茨戸方面です。
メンバーが揃ったところで、まずは最初に釣り餌のミミズ採りに。発寒川を渡って農家をやってた同級生、菅原くん家の農場へ。(菅原くんも一緒にでかける)彼の家の農場裏の馬糞の山(たい肥場)からミミズをほじくる。まだちよっと肌寒い早朝には、この馬糞山からモウモウと湯気が立ち上っている。(たい肥が発酵すると70度Cくらいになるらしい)その山を小枝でほじってミミズを指で摘んで餌箱に詰め込んで、これで準備OK。
目的地まで約10Kmほどある。
発寒→新川→新琴似→屯田→花岬(ばんなぐろ)※茨戸公園まではいかない。
当時は琴似を離れるとすべて農道でずっとジャリ道と裸土の凸凹道でガタガタゴロゴロ自転車を漕ぐ。とにかく早朝5時頃まで現場到着の予定で一路茨戸方面へ。
途中の畑からパンパンパンという爆竹の音がする…あれは、カラスやスズメなどの鳥を追っ払うための音だったのでしょうか?。
まだ朝霧が漂う釣り現場へ約2時間かけて到着し、それぞれが気に入った水辺に竿を入れる。朝一番、そこにはとても静かな時間があります。フナが釣れると、クルクルとテグスの先にフナが朝日を浴びて“銀色の鈴”のように踊って、まるでチリンチリンと音がするようにキラキラと輝くのです。これがとても綺麗で、その光景は音とともにいまも目に焼きついています。
お昼になると、川辺はとても暖かくて ウトウトと居眠りを誘われるほど幸せになります。音のない世界、まるで天国です。3時頃には帰途につくのですが、名残り惜しくまだ居たいと思うその感じは、夏の海から帰るときに後ろ髪を引かれるような…そんな情景に似ています。
そして凸凹道を、またエッチラオッチラ自転車を踏んで…帰りはゆるい登りで、しばらく進むと遥か遠く前方に三角山が見えてきます。その方向を目指して一心不乱に自転車を漕ぐ。
で、次ぎの日はケツがメチヤクチャに痛い!2日間は痛い。でも中学2年生14才の僕らは、とにかく元気でした。「来週も行くか?!」
琴似神社の夏祭り
現在の琴似神社の祭り縁日は、神社から栄町通りの真ん中あたりまで沢山の屋台が出てとても賑やかです。
その昔、50年前の琴似神社周辺は、当然なのですがマンションやビルはなく、木造の商店や民家がポツンポツンとあり、道路を挟んだ琴似小学校の向かい、大木の雑木林に囲まれた一角でした。
夏祭りの夜は、裸電球とアセチレンランプの灯りも手伝って神社の周辺だけが煌々と明るく、境内の大木も黒い影で浮き上がり、人々のザワついた雑踏とや子供が親や友達を呼ぶ声などで、いつもとは違う興奮した情景がありました。
神社の鳥居前の大通りを挟んだ向かい側は空き地で、雑草の芝生が広がり大木も立っていて、次に学校の畑があって、その奥に琴似小学校の正面玄関がありました。
祭りの昼間、この雑草の芝生では大道芸のオッサンが、ガマの薬売りと称して蛇(毒蛇といいながら?)と日本刀で自分の腕に噛ませたり傷をつけたりして、その後に薬で血を止めるという芸?で最後に“薬を売る”という怪しげな商売をやっていました。そんな方法で本当に薬が売れたのかどうか?こんな仕掛けで薬が売れたとは考えられないのですが…昔は昔でそれなりに、偽物を口上で売る(見るだけの人も買う人も“ニセモノ”と解っている)という商売人がいましたから。目論み程度は売れたのでしょうね。
縁日では定番の「金魚すくい」「ヨーヨー釣り」「ハッカパイプ」「カルメ焼き」「ビニールのお面」「風船」「型ヌキ」「ひものくじ引き」「オモチャ屋」などが並んでいて、一等地の神社入口の鳥居のあたりには、種類がこんにゃくと三角カマボコだけの「味噌おでん屋」など。
そして「飴屋さん」たち…“たち”というのは飴屋にも種類があって、まずは「わた飴」(いまもあります、人気です。ボクは、ザラ目砂糖が、なぜグルグルと綿状になるのか?いまだに仕掛が解りません)、「水飴」「飴細工」水飴屋は直径70cmくらいの真鍮の貫禄のある鍋に飴色( コハク色)の麦芽糖の水飴がテカッと光ってたっぷり入っていて、とても旨そうでした。傍には薄くてひらべったい肌色の“ハト麦煎餅”と、黒ゴマの“南部煎餅”が用意されていて、水飴を固い竹べらで掘り出しで、割り箸にクルックルクルッと捲いて煎餅をくっつけて「ハイッ!」。これが屋台ではとても旨いのです。
「飴細工」とは、温めた白い飴をストロー状の細い竹の先にくっけて、指先で形を作り息を入れて膨らませながら、イヌ・丹頂つる・サル(イワザル/キカザル/ミザル)・ニワトリなど…最後に筆でサッサッと色をつけて出きあがり。お客さんのリクエストを受けて売ってました。お見事!ただし完成した飴は冷えて固まるとパリンパリンに割れてとてもか弱い代物です。作っている最中のオッサンの話も面白く、「飴細工」さんは人気があって沢山の見物人を引きつけていました。
そうそう、今日の話の昭和35年(1960年)の初夏から、通称「ダッコちゃん」(正式名/木のぼりウィンキー/光りの角度によって目がウィンクするから)が大流行しました。当然、祭りの屋台でニセモノが売られていたと思います。(ニセモノはウィンクをしない)お祭りで若いお姉さんが、腕やハンドバッグに「ダッコちゃん」をくっけてデートしてました。ボクにはあの「ダッコちゃん」が、“なぜか?怪しさと色っぽさとが一体になって記憶されている”のです…おそらく、“ダッコちゃん”をくっつけていた色っぽいお姉さんさんが、ボクの近くのどこかにいたのでしょうね。(それ誰かは、はっきりしてません。)
昭和の映画館
映画が娯楽の中心であったその昔、映画館はそれぞれの街の繁華街の真ん中にあって、通りには「パチンコ」と「スマートボール」「かき氷り」「レコード」「本」「お焼き」「ラーメン」「喫茶店」「食堂」などの店がひしめき、休日を多いに楽しませてくれていた。
1955年(昭和30年)の札幌に映画館は22館(軒)あった。その7年後の1962年には47館(軒)に増えていたから、この頃が映画の全盛であったらしい。札幌中心部の映画館は「松竹座」「札幌劇場」「名画座」「帝国座」などが封切り館で、中でも「名画座」は札幌軟石で積み上げられた階段を昇る洋画専門劇場として、話題の洋画作品が上映されて人気があった。また丸井デパートの7階にあった映画劇場はニュース映画を主体に、アニメやアメリカのB級映画が安くて見れて、ここも人気があった。僕は丸井さんのレコード売場に立ち寄ってから、この映画館で映画を見て帰るのが楽しみであった。
(後年のオカルト映画「エクソシスト」にそっくりな、その種類のアメリカ製B級映画は、1950年代~60年前後に屋外の大スクリーンを車の中で見る「ドライブ・イン・シアター」用に、安上がりに製作された音響も映像もハデなアクションが売りの映画のこと。※上部の写真参照)
ちなみに62年8月6日の映画案内欄の北海道新聞の記事には、映画「ウエスト・サイド・ストーリ」に出演した男優“ジョージ・チャッキリスが来日した”というニュースと“マリリン・モンローの死”を伝える記事が同時に小さく載っていた。
いま都会では複数の映画館がワン・フロアに集合した「シネマ・コンプレックス」というスタイルになっている。時代とともに映画館もずいぶん変わってしまった。
「モンロー・ウォーク」のお姉さん
1958年当時のボクの家は、琴似山の手通りのバス路線の終点「国立札幌療養所前」(現在/西札幌病院)の停留所前にありました。
この地区から札幌都心方面へ…通学と会社勤めにのみなさんは、この“市営バス/山の手線”に乗って出かけるのですが、その人たちをボクは家の窓から直接見ることができたのです。(見ていた訳ではありませんが…見えるのでした)
で、そのバスを使う通勤者の中に、ひとりだけ頭からつま先まで都会センスのファッションに身を包んだ、20歳くらいのお嬢さんがいました。
この“ひとりだけのお嬢さん”という強調的な言い回しの意味は…
1950年代の話しですから、当時はビシッと洋服を着飾った女性はそんなにいなくて、でもこの若い女性は、いかにもお金持のお嬢さんの雰囲気で…極端に表現しますと「ハリウッド女優の気分がかなり入った若い娘さん」(当然目立つ)でした。
この女性の歩き方が「モンロー・ウォーク」だったのです。
シーム入りのストッキングにハイヒール、お尻の形がプリッと張った流行のタイト・スカート。おまけに歩くだびに、そのお尻が大げさに左右に触れでいるのです。
1958年あたりのお話しで、ボクはまだ13歳(中1)の子供でしたから、その時には「モンロー・ウォーク」のことは知らなかったのです…まして「マリリン・モンロー」という女優さんすら知らなかったのですから。
なぜ彼女が「モンロー・ウォーク」だと解ったのかというと、それは大人になってからでして…その人の印象が子供心にとても色っぽく目に焼きついていて、ズーッと頭の片隅に記憶されていたからでありました。
あるときに、北海道新聞社の資料室で古い新聞記事を探っていたら、1955年の新聞に偶然「モンロー・ウォークの歩き方」という記事がイラスト入りで出てきて、一瞬「これ~あの時のあの人だ!」と直感したのであります。
彼女は現在72歳くらいになられています。おそらく今も、きっとステキな雰囲気を維持しているであろうと思われます。実はボクは、この方がどこのどなたかは知っているのですが…当女性に関しての具体的なお話は、ここまでとさせていただきます。
「モンロー・ウォーク」。マリリン・モンロー主演の1953年の出世作「ナイアガラ」で彼女が見せた、ピシッとしたタイトスカートでお尻を振りながら歩くスタイル。翌年の1954年2月(昭和29年)には、ジョー・ディマジオとの新婚旅行で日本にやってきています。ここで「モンロー・ウォーク」は日本でも有名になったとのことです。
卒業式後の “ラスト・ホームルーム”
1960年(昭35)3月中旬。僕ら琴似中学3年生の卒業式が終わった“最後のホームルーム”にて…。
担任が若い英語の富沢先生(当時24か25歳)だった勢いで…教室を万国旗で飾って「アメリカン・パーティー」のようなことをやった。ひとりの男子生徒が、ポール・アンカの「ダイアナ」をアコースティック・ギターで歌ったりして大騒ぎ。
後でその先生は校長に叱られたそうです。
「そういう不良っぽいことをしてはイカン!」。
ズーッと後でのクラス会で先生の話しで知りました。アメリカン・ポップスの楽しさを知ったのはこの時かも。