1964年(昭39)4月
東京生活はじまる
—なんとラッキーなことか!高度成長時代のど真ん中で“大都会の勢い”を体験する。と同時に、世界の大きな変化を東京で体現する。—
ビートルズ旋風が吹き荒れはじめていた1964年3月28日(土)の朝に、僕は隣家のおじさんと一緒に、国鉄札幌駅から小樽回りで東京(当時は蒸気機関車)へ向かった。
暦は春になっていたがまだまだ肌寒く、周囲の野原は残雪がいっぱいだ。手稲山のてっぺんにはたくさんの雪が残り、山の手通りの泥んこ路に、雪解け水がジョロジョロと音を立てて、いく筋かになって流れている。
いつもは見なれている風景と、家族や友達と別れる淋しさも重なって、一瞬、琴似の山の手を離れがたい気持ちになったが、東京という憧れの大都会で生活できる希望と期待感は、それよりも数十倍大きくなっていて、心は洋々としていた。
出かける早朝に、母は心配顔で「元気で頑張ってね…」と簡単な言葉で見送ってくれた。
当時の日本社会は、故郷をはなれて都へ出るということは、“錦を飾って帰る”とか、“志しを全とうして”などの精神論が一緒にくっいていたから、ボクもそのことは強く心に刻んだ。高校を出て、北海道企業・某食品会社の東京事業所・企画宣伝課に就職。夜はデザイン専門学校で勉強という上京だった。
遊びに行くのではないが、東京へ一緒に持って行ったレコードは、ボビー・ヴィントンの4曲入りEP盤と、ビートルズの「抱きしめたい」と、3月上旬に発売されたセカンド・シングルの「プリーズ・プリーズ・ミー」のシングル盤。そしてビリー・ヴォーン楽団のステレオ盤「浪路はるかに」など、数枚だけにした。(昔のレコードというのは、だいたいこのような生活変化のタイミングで何処かへいってしまうもの…
(ちなみに、5年後に帰ってきたとき、レコードはそっくり残っていたが、一番大事にしていた“おじさんからもらった立派な電蓄”<33/45/78回転付で昔のSP盤もかけられる特注ものだった>が、母の仕業で無くなっていた。クーッ…)
津軽海峡を連絡船で渡って、青森から再び汽車に揺られ約24時間かけて、翌朝に上野へ着いた。一年前の修学旅行で上野駅は見てはいたが、線路の多さには圧倒された。東京はポカポカ陽気で、サクラも八部咲きの春まっ盛り。この年1964年は、日本が物質的にも精神的にもダイナミックに変化する「東京オリンピック」があった。そして同年に「平凡パンチ」創刊、ファッションとしては「アイビー・ルック」「ミニ・スカート」がやつぎばやに登場し、ヤング層の消費時代の幕開けでもあった。
ポピュラー音楽の世界では、イギリスのビートルズが、それまでアメリカ支配一辺倒だった状況を粉砕して、世界中の若者に、に大きな自信を与えた。彼らの予想をはるかに越えた成功とその勢いをバネに、イタリヤやフランス勢も一気に攻勢に出て、さまざまな音楽やファッションなどの流行が登場し、いままでにない多様な若者文化が生まれはじめた。
若者文化の象徴のひとつは、ロンドンのカーナビー・ストリートから出た“スィンギング・ロンドン”というムーブメントで、ミニ・スカートのモデル「ツィッギー」や、フランスからはイエイの「シルヴィ・バルタン」などが登場しその先頭を走った。
ポップスは、イギリスからは、“テル・ミー”「ローリング・ストーンズ」、“朝日のあたる家”「アニマルズ」、“ドゥ・ワ・ディディ・ディディ”「マンフレッド・マン」“シーズ・ノット・ゼア”「ゾンビーズ」など。フランスからは前出の“アイドルを探せ”「シルヴィ・バルタン」、“ブルージーンと皮ジャンパー”「アダモ」。ドイツから“恋はすばやく”「ガス・バッカス」。イタリアから“夢みる想い”「ジリオラ・チンクェッティ」、“ほほにかかる涙”「ボビー・ソロ」など。もちろんポップスの本場アメリカからは「レスリー・ゴーア」や「ジョニー・シンバル」「ビーチ・ボーイズ」などの、ヤングアイドル歌手たちがぞくぞく登場! 遅ればせながら日本も、イギリスのビート・バンドをお手本にグループ・サウンドが開花しはじめていた。
東京ではじめて買ったレコードは、これまたビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」で、会社の仮住いがあった飯田橋の坂を昇ったところの、神楽坂の小さなレコード店だった。
東京へ出ていきなりビックリさせられたのが、銀座みゆき通りにたむろする“みゆき族”。この春に東京の私大を出た先輩たち(みゆき族もどき)に誘われて、初夏の銀座にでかけたことがあった。
“本物のみゆき族”は、海水浴にはまだ早い6月なのに、すでに陽焼けでまっ黒だった。ファッションは、男の子はバミューダ・パンツに白いストッキングかチノパン。女の子は、白いブラウスに、ハワイ風ハデな花柄プリントの、くるぶしまである丈の長いスカート。
腕にかかえこんでいるはジュート地のでっかいコーヒー袋だ…どことなくセンスがよくて、いわゆるアカヌケしてる!って感じ。自宅は東京都内にあって、当然クルマ(親)を持ってて、気軽に横浜や湘南に遊びにでかけられる余裕あり。(らしいのだ)まぁ、和製ビーチ・ボーイズの世界でしょうか。
そうだ!自分もファッションが気になりだして、まず買ったのは、新宿三峰でVANのアイビースーツ類と靴。ヘア・スタイルを整える整髪料MG5と柳谷のチック。そしてキメは必須アイテムのドライヤーだった。髪型は七三に分けてアイパーをかけ、朝の整髪には30分をかけた。予想以上に楽しいワクワクの東京生活。僕にとって1964年4月1日からの年末までは、あっという間に過ぎた。
1965年が明けると、急にベトナム問題が騒がしくなった。前年の64年8月に“トンキン湾事件”(アメリカ介入の口実づくり?)が発生し、直後に北ベトナム解放民族戦線が、南ベトナム正規軍を打ち破るなど、アメリカ軍は危機感をいだき“北爆”で直接介入を開始した。さらに夏あたりから、本格的な局地戦争に突入した。新聞やTVは、ここにきてベトナム問題を大きく取り上げはじめ、それまで他国の問題としてのんびり構えていたボク(たち)も、このあたりから気分がいくぶん憂鬱になってきたが、しかし日本全体はまだ明るく楽しかったので、多くの日本人は知らんぷりして遊んでいた。
このような時代背景があって、ポップスも「PPM」「ブラザーズ・フォー」などの優しい語り口からフォーク・ソングは、しわがれ声の“ボブ・デュラン”の歌う「風に吹かれて」や“ジョーン・バエズ”にとって変わられた。単に“恋”や“愛”だのニヤニヤした詩の内容から、自己・青春・思想など、さらに社会・人種・貧困まで…歌にも社会的テーマが入り込んできたのである。僕らがやっと大人になってきた証拠でもあり、時代も、次に急回転しはじめたのである。
60年代・70年代を語る上で、64年の「ビートルズ出現」と同時に増幅しはじめた「若者文化の隆盛」や「時代の気分」と平行して「ベトナム戦争」の事実を知っておかなければ、あの時代の音楽も映画も文学も語ることはできない。
【65年のビートルズは】
●2月中旬まで、それぞれ思い思いにプライベートを楽しみ休養した。リンゴはかねてからつき合っていた美容師のメアリー・コックスと結婚した。
●2月~6月の4カ月間を映画「ヘルプ!」製作に専念した。
●6月にはエリザベス女王からMBE勲章(大英帝国五等勲章)を授与された。
●彼らの新しい音楽は、「涙の乗車券」「ヘルプ!」、アルバム「4人はアイドル」が発売され軽くミリオン・セラーを記録した。そしてポールが弦楽四重奏をバックに歌った「イエスタディ」は、それまでのビートルズのイメージをうち破る傑作として絶賛をあびた。
●12月にはアルバム「ラバー・ソウル」(ミッシェル/ガール/イン・マイ・ライフなどを収録)を発表。
●この年は、後半からライブを行い、特にアメリカでは5万6千人を動員したコンサートでヘリコプターで登場するなど話題を提供した。エルヴィス・プレスリーとの会談もこのツアー最中に実現した。
1964年(昭39)6月
銀座・みゆき族
「先輩!…そんなでっかい袋もって、どこ行くんですか?」
「う うん…銀座」
「ぎ・ん・ざ…?」
ビシッとアイビー・ファッションで決めて、寮からいそいそと出かける先輩が、何処へ行ったのかはすぐに判明した。向かった先は、銀座「みゆき通り」だった。
戦後も13年が経った昭和33年頃になると世の中はかなり落ち着いて、東京には太陽族というグループが発生。当時の若き新進作家、石原慎太郎(現在の東京都知事)の小説「太陽の季節」からの「太陽族」を筆頭に、その後「ロカビリー族」「六本木族」など続々と新若者グループが誕生した。
それからしばらくたった昭和39年に、レンガを敷き詰めた銀座仲通りのファッション・ブティック街“みゆき通り”に、5~6人が一塊でたむろす「みゆき族」と呼ばれる若者たちが多数出現した。
女の娘たちは、ちょっと変わったニュー・ファッション。“ハワイアン花柄模様”の足首が隠れるほどの長いスカートに、長い腰ひもつきというスタイル。男の子は、ほぼ定番のアイビー・スタイル。
共通のファッション・アイテムはでっかいファッション・バックだ。このバッグ、粗麻で仕立てた本物のコーヒー豆袋だったりVANのショッピング・バックだった。
みんな浅黒くてかわいい高校生が中心だが、大学生や若い社会人も紛れ込み、当時はやりのデザイン学生風も結構いた。
彼らは街角にたむろし、何することもなくニコニコ・ワイワイおしゃべりを楽しんでいる。それでも大人から見ると不良に見えたり、外国人には目障りと判断されたのか?
東京オリンピックが近づいた9月には、「みゆき族」たちは近くの築地署に補導されてどこかえ消えてしまった。そして一カ月後に東京オリンピックが開催された。
1966年(昭41)8月
真夏の第三京浜
1964年の「東京オリンピック」を境に、東京は大きく変わった。
新幹線が開通し高速自動車道もいくつも完成して、本格的なモータリーゼーションの時代が来たのだ。同時に若者たちの生活や遊びもグンと豊かになって、お金持ちのボンボンたちなどは、マイ・カーで遊べる時代になっていた。
1964年10月に開通した「第3京浜」は日本で最初の6車線自動車専用高速自動車道だ。当時は世田谷の玉川インターチェンジからスタートして、川崎を経由して横浜まで。その先の鎌倉・逗子・江ノ島・茅ヶ崎などの、湘南の海へ向かう若者に人気のリゾート・ハイウェイである。
朝7時というのに、すでに眩しくて暑い!
品川ゲート入り口の広い駐車場には、自慢のスポーツ・カーを囲んでワイワイキャーキャーと何組もの若者たちが騒がしい。みんな白のアイビー・スタイル。一番の流行りはビシッと決めたポロシャツにバミューダ・パンツ。そして靴は平べったいローファー・シューズだ。真っ黒な顔に真っ白い歯の笑顔。みんなステキな「平凡パンチ」のイラストそのまま。
彼らの側にはそれぞれ自慢の愛車たち。トヨタ「スポーツ800」、いすゞ「ベレット」、日野「コンテッサ」、ホンダ「S800」。小さな赤いオープンカー・ダイハツ「コンパーノ・スパイダー」、 そして日産「フェアレディ」。プリンス「スカイライン200GT」、スカイラインはスカGと呼ばれ特に人気車だった。 そして数段格上の憧れの最高級スポーツ車トヨタ「2000GT」。 みんな個性的なデザインがかわいい、小型スポーツカーの時代だ。
一台の車がゲート・インして、横浜方面へバリバリバリ~と大きな排気音で走り去る。その後を何台かの仲間の車が追いかける。しばらくして、どこから現れたのか?日産「シルビア」のパトカーがスーッと彼らを追尾した。
若いながら小さな運送屋を経営していたあこがれの先輩は、会社の重役たちが乗るタイプの「黒の日産セドリック」のマフラーを改造して、バリバリいわせて参戦していた。
僕らといえば、目黒駅近くの大きな雑貨屋の息子と一緒に、彼のお父さんの黒くてでっかい1950年代の「旧型プリンス・スカイライン」(テールフィン)でチョロチョロと湘南へドライブして遊んだ。1964年にはアメリカからビーチ・ボーイズの「サーフインU.S.A.」が伝わっていて、ポップスも“サーフィン&ホッド・ロッド”がヒットし日本でも人気だった。
湘南方面といえば、姉が藤沢の鵠沼(くげぬま)に嫁いでいて、東京に出た直後の6月初夏の夕刻に姉夫婦と3人で湘南海岸をドライブして「ご飯しよう!」ということになった。当時かなり話題になっていた茅ヶ崎海岸の「白亜のパシフィックホテル」(当時は加山雄三のお父さんの経営)に入ってみる。まだ夏の季節には早かったので館内には客がいなくてとても静かだ。真っ暗な空間にスポットで照らされたシュロの葉がそよいでいる。少し離れた砂辺からはザブ~ン シュワ~ ザブ~ン シュワ シュワ シュワ 波音だけが運ばれてくる。僕はお酒は飲まないが、せっかくだから一杯だけカクテルの「ブルー・ハワイ」を注文してみる。
東京に出たての19歳、姉夫婦にポツリポツリと将来の夢を語ってみる…あれから45年の歳月が流れて、その時に話した夢って…今は??
そんな贅沢な時間を過ごせた湘南・茅ヶ崎の初夏のひとときであった。
京王線の飛田給にて
(とびたきゅう)
東京時代の住み家は、東京へ出てきた順番に羅列しますと、国鉄大森駅前の連れ込み旅館(取りあえず一週間ほど)→蒲田のアパート(工場での新人研修期間1カ月)→飯田橋の会社の会館(2カ月程)→そして4カ月後の1964年8月末に最後に落ち着いたところが、京王線・飛田給のアパート借りあげの会社寮でした。
昼間の仕事(北海道出身の某食品会社)の事務所は地下鉄中野駅下車で、夜間のデザイン学校が代々木にあったから、電車乗換えと行動起点はほぼ新宿。買い物や映画、友人に逢う(たまにはデイト)場合もほとんどが新宿でした。
新宿で記憶に残っているところは「西口の国鉄線路沿いのヤキトリ屋台」「西口から東口へ抜ける地下道」「男性ファッションの三峰」「デザイン用具のいずみや」「待ち合い場所の三幸前」「歌舞伎町の映画館とパチンコ屋とゴーゴークラブ」「歌舞伎町の蔦の絡まった喫茶店」「小田急と京王デパート」「西部新宿駅ちかくの歌声喫茶・ともしび」「新宿会館のエル・フラメンコ」「本の紀伊国屋」「花園神社の天井桟敷」「末広亭ちかくのアングラ劇場・蠍座」「美人喫茶・エルザ」、そして歌舞伎町はずれの「ストリップ劇場・コマ」「新宿3丁目のあやしいバー」(物陰から、お・に・い・さ・ん遊んでいかない!)など…。
東京に出たばかりの新鮮さと物珍しさで、それぞれの地区ではそれぞれに楽しかったのですが、飛田給には3年間おりましたので、ここからは飛田給でのいくつかの出来事を記しておきます。
飛田給というところは京王線新宿駅から電車で約40分程(調布から各駅に乗換え)にあり、周囲が畑と一般住宅が点在している田舎町でした。近くには甲州街道、多摩川の支流、京王多摩川の調布遊園地とプール(その近くに大映撮影所)がある静でノンビリした郊外です。
■琴似山の手の実家の隣人が、「親戚が京王調布の大映撮影所で大道具係やってるから、遊びに行ってみたら。」と紹介してくれたので、早速アポをとって行ってみました。撮影所の入口には、“国鉄線路の踏切みたいな遮断機”があって、車はもちろん遮断機が上がらないと撮影所には入られません。遮断機というのはですね、いかにも「一般人お断り、ここから先はダメ!」っていう、わざとらしい無言のメッセージが伝わって来るものですね。何か偉そうに構えてます、撮影所入口というのは…。
徒歩の僕は面会する大道具さんの名前を告げ、胸に入所許可証を付けて遮断機の下をくぐって入れてもらいました。急に自分が特別な人になった感じがしたものです。
真ん中にドーンと、奥までまっすぐにのびた幅広い大通りがあって、その周囲にはデカイ倉庫のような建物(撮影スタジオ)が並んでいます。空間はとっても広い。
大道具のオジサンが迎えに出てくれて小道具部屋まで案内してくれる。途中で映画や“芸能雑誌の平凡や明星”で知った女優さん男優さんたちが、江戸時代の衣装でにこやかに歩いてくる。特別な世界にいるのでウキウキだ。
その後、甘いものを持って何度か遊びに行ったので、ゲートのオジサンとも顔なじみになり「どうも、こんにちわ!」で入れてもらえるようになって、勝手に時代劇の小道具部屋で遊んだりした。
巨大な倉庫のようなスタジオのひとつは江戸時代の宿場街になっていて、家並み街道のズーッと遥か向こうには、砂浜の松並木と青い空に白い雲が広がっているのですが?…近づいて見ると、それがすべて布幕に書かれた絵であったのにはドギモを抜かれました。一方、小道具部屋には時代劇の「十手」「手裏剣」「御用提灯」「刀」、何でもあるのですよ、面白いところです。
ついでに夏の天気の良い日には、多摩川遊園地のプールへも行ってみたり…。
僕は高校生時代にちょこっと演劇をやっていて一時期芝居にのめり込んでいたので、もしもこんなキッカケで映画の世界に入って行ったかも知れないな…と回想することがあります。ただし映画はすでに斜陽産業となっていましたので、それ以上は具体的に考えませんでした。
■ある時、ここ田舎の飛田給の万屋(よろづや)さんに、メチャクチャ奇麗なオーラを発しているベッピンさんが、トレンチコートを肩に掛けたラフな服装で買い物をしてるんですよね。
あまりにも美しい女性だったので、彼女が店を去ったあとにオバチャンに聞いてみました。「あの女性はどういう人なの?」すると、「あの方は女優さんですよ。姿 美智子さんの妹さんです。」とのことでした。
(姿 美千子さんは札幌出身の大映の女優さん。。映画「すっとび仁義」で橋幸夫の相手役として全国募集で選ばれた。その妹さんは当時は日活の女優さんで、芸名を橘 和子といっていたらしい<後調べ> その後、姿 美千子さんは巨人軍の倉田投手と、妹さんは同巨人軍の高橋かずみ投手と結婚した)
本当に奇麗な人でした。
■いま思い出しても、ゾッとする経験もあります。
夏の暑い夜。アパートに帰って蛍光灯を点けても、部屋全体が何ぜか暗い(黒い)のです。??…そして、な~んか静かなんですよ。(不気味な気配)
ギャッ!
何と部屋中が「蚊」だらけで、白い壁も天井も一面が蚊。顔の回りを無数にブンブンしてるんです。どうしよう…そういえば、出るときに窓を全開にして出てしまったのですね。どうやって寝たかって…幸い締め切ってあった押し入れの引き戸を、ソ~と空けて滑り込みました。
蚊にはそんなに刺されたような記憶がありませんので、刺さない種類の蚊だったのかも?よくは解りませんが。
飛田給は多摩川の支流沿いにあって、蚊の大量発生に遭遇したのでした。
それから虫というと、茶色いゴキブリはチョロチョロといつでもいますが、黒虫といった?体長6cmほどのでっかいゴキブリがいたんですね。それがステンレスの流しに5匹も出るのです。ガサガサと大きな音たてて。コノヤロー!ザケンナ!って感じでした。
■このアパートの大家さんの息子さんは、早稲田大学の学生で僕と同じ歳で、よく車で海に遊びに行ったり、たまには軟派目的で新宿へ飲みに出たり、早慶戦後の新宿・歌舞伎町の噴水大騒ぎや、品川スケートリンクでのダンパにも出かけたものです。彼のお母さんにも良くしてもらいました。ありがとう!
美人喫茶と美人バー
ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」がヒットしていたから、1965年の春でしたね。
東京では当時そのままの意味の“美人喫茶”という喫茶店が出現しましてね、新宿の末広亭ちかくには“エルザ”という100人程収容できる、結構な大きさの店がありました。
店内は4つ分のボックス(担当16人ほど)の角々に、トレイを手にした美人のウェイトレスさんが一人づつ立っていて、“どうぞご自由に私をご観覧ください”というサービス(仕事)なのですが、彼女らにはどこか恥ずかしげな表情と、斜め45度のどこからかからチラチラ観られているような、という不気味な状況に、たぶん本人も不自然な雰囲気が感知されていたものでありましょう。喫茶店ですからコーヒー、ココア、ミルク、ジンジャーエール、レモンスカッシュ、パフェ、ジュース類…夏になるとカキ氷など。当然普通の喫茶店の値段より30%ほど高かったものです。
美人度?東京ですから、それぞれそれなりに整った女性たちだったと思いますよ。
僕が推測するには、この頃イギリスのロンドンから飛来した「スウィンギング・ロンドン」というムーブメント(マリー・クワントのミニ・スカートとモデルのツィッギーなどのファッション)が日本でも受け入れられ、一気にファッション・ビジネスが拡大したこと。それに乗じてファッション・モデルも数多く世に出たが、みんながモデルの仕事だけでは喰えなくて、このような美人喫茶などでアルバイトしながら生活していたのであろう、ということでしょうか。
モデルさんといえば、同じく新宿の“エルザ”のちかくに、カウンターのみでホステスさんが皆、現役ファッション・モデルばかりという有名な(店名は記憶にありません)バーがありました。先輩のコマーシャル・カメラマンに連れられて行ったのです。
その店は僕にとってはさすがに緊張いっぱいで、女性たちと気の利いた会話には一切応答できずに(みなさん年上でしたし)スゴスゴと退散した記憶があります。勿論カメラマンは女の子に知り合いがいて、リラックスしながら楽しそうに談笑してましたが…。(グヤジイ!)
その店には、その後数回、同じカメラマンに連れられて行きましたが、僕は酒があまり飲めないこともあって、ズーッと溶け込めずに終わりました。ただし“女性と気の利いた会話が出来るように…”と、随分気にしながら、その点かなり努力したことは良い経験であったかも知れません。
その店で、バイオレットフィズ、コークハイ、ブルーハワイなどの、当時流行のカクテルを知りました。
俺も同罪!?
「おい、千葉!今日の夜ヒマか?」
「え?」
「仕事終わったあと、これから用事あるのか?ってこと!」
「あっ…いえ、何もありませんが…」
「じゃ~俺につきあえ!」
「はい!」
40歳台の総務課長と二人で、仕事を終えた7時頃に新中野の会社からタクシーに乗る。
「何かあるんですか、どこへ行くんですか?」
「まぁ、黙って付いてこい!」
「お前にはちょっとばかり世話になってるからな…タマにはいいべ!」
(課長も北海道出身)
「はぁ?… 世話になってる?」
平社員のボクが部署の違う課長をお世話してる?テ??…
まぁ、いいか。
到着したのは、銀座のちょっとした高級レストランだ。
オーダーが終わって料理が出てくるまでの間に、先ほどのちょっと気になっていたことを聞いてみる。
「ところで斉藤課長、僕に世話になっているって…何でしょうか?」
「あぁ~ほらっ!毎月な、会社の社内報でいろいろ手伝ってもらってるからな…」
「はぁい…」
僕は企画課の所属で、通常は新商品のプロモーション準備とか、パンフレット作りや店頭POPの制作準備などを手伝うのが本業である。
組織的には社内報は総務課の分野で、それを部署の違う社員に手伝わせることは一応社内規定からは少々逸脱しているらしい。自分の上司には当然、社内的許可を得ているのだったが、彼の“世話になっている”という意味は、そのことだった。
「お待たせいたしました!」
しばらくして…おっとビックリ!眼前にいきなり、全長30cmほどのでっかいエビが出てきた。
「千葉はこんなの喰ったことないだろう!これはロブスターっていうんだぞ」
エビの赤い殻が胴体あたりから縦半分に割られていて、その中にはゴロゴロと一口大に切られた、白くて分厚い身肉が盛りつけられていた。
「食べたことないですよ~こんなの…でっかいですね~スッゴイですね~」
課長は親切丁寧に、この料理についていろいろ説明を加えた。
「このソースはな…エビの肝臓がベースになっていて、カニのミソと同じでな…
しかしカニと違ってミソはほんの少ししか採れないからな…それをワインで煮込んでな」
「このソースをこうつけて…どうだ旨いだろう!」
「千葉は、酒は飲めるんだろ?!」
「いえ、お酒はあまり飲めないんですけれど…少しだけなら」
本当は下戸なのだが…この場面では「まったく飲めません」とは言えなかった。
一緒に白ワインが出てきて、彼はカパッと慣れた仕草で飲っている。
我々の会社は食品メーカーだったから、彼の料理のウンチク話しは社員教育のつもりでもあったのだろう。
「ところで、彼女はいるのか?」
「いえいえ、いませんよ!仕事も給料も一人前にならないと…とても…」などなど。会社や仕事のこと、ボクの将来のこと、親と家族のことをイロイロ聞かれつつ、「俺の家は、息子が高校生で下の娘はまだ小学生だから、オヤジもタイヘンだ!給料安いしな…ハハハ」
合間に彼自身のグチも交えたりして、それぞれの日常的な話がしばらく続いた。
ボクは、ロブスターが出てきたときに、その見た目の豪華さにはビックリはしたが、身の食感は肉っぽく歯切れもゴムゴムとしていて、“あまり旨いモノではないな~”と心の中で思ったりしていた。
「どうだった、ロブスターは?」
「いや~旨かったです!初めてでした~ありがとうございました」
「そうか~良かった、良かったぁ。さぁ~次行くぞ!!」
「次っ?」
僕もすでに調子に乗ってウキウキしていたから、
元気に「行きましょ~っ!どこ行くんですか~」
「よーし、着てこい!!」
銀座から霞ヶ関を経由して赤坂へ。官庁街から静かな佇まいの高級住宅地っぽい坂の途中に、突然何と建物全体がギラギラ・ネオンの城が現われる。
建物の正面にはバーンと三日月のネオンサイン。
「ここっキャバレーですかっ!」
「おっ“月世界”っていうんだ。聞いたことあるべ!」
すでに酒が入っているから調子は上々で、北海道弁もバンバン出てくる。
タクシーが入り口にすべり込むと、黒に金淵のついたゴージャスな帽子と衣装のドア・ボーイが走り寄ってドアを開け「ようこそ、いらっしゃいませ!」
「へぇ~ここが、“月世界”か~」
有名だから、名前だけは知っていた。
僕はオズオズと課長の後にくっついて店内へ。中はかなり暗くて、どこがどうなっているのか様子を伺う余裕もなく…
次いでどこからか、背の高~いモデル級のお姉さんが2名現われ、とても上品に「いらっしゃいませ!」とニッコリされて…「あっ、はいどーも…」と声にならない程度しか反応できない。まだまだ、世の中知らずの若配者だから気の聞いた返答ができずに…モジモジ。
ここでは、初対面のホステスが、すぐ客の横にドカッと「いらっしゃ~い!どうもっ!」って気安くくっついてくるような大衆キャバレーではなくて、高級レストランのダイニング・セットのどっしりテーブルが客席で、それぞれ隣との席が椅子で離れていて、おしゃべりを楽しみながら品よくという雰囲気であった。今日は割りと空いているようで静かな店内だ。
しばらくして、目が暗い店内に慣れたころ…
「ひえっ~」15メートルほど先のテーブルに、バツグンにベッピンな4人のお姉さんたちに囲まれて、ニコニコしている男性が二人!な・な・なんと、その男たちは、ジャイアンツの「0選手とN選手」ではありませんか。ぼくは一瞬舞いあがって、課長の耳もとに
「課長、課長…あそこ、あそこに!」
彼はチラッと見て「オ~そうだな」
さほどの感動は示さず慣れた様子で反応した。
このような調子で、ある時は焼肉をご馳走になったあと新宿のキャバレー「大学」へ。この店はネーミングからしても安そうな大衆キャバレーで、歳上ホステスさんとのチーク・ダンス(練習)がいかったです。または築地の寿司屋のあと、銀座のキャバレー「クインビー」。ここは有名な店で結構高かったらしい。
たまに彼は「お前と気の合う奴(同じ会社の同僚のこと)一人だけ連れてきていいぞ」とか、そんなこんなの楽しくてうれしい出来事が半年間に数回あって…
ここしばらく、お誘いがないな~?と思いつつ、例の斎藤課長もしばらく社内で見かけなくなっていた。
そんな矢先に「総務の斉藤課長さ、会社の金を50万円位使い込んで、クビになったらしい…」という噂が僕の耳にも届いてきた。
「え~!ヤバイ。オレもクビだぁ~。」
一瞬、ブルブルッと悪寒が走り、“当然クビッ?”
そう覚悟したが、本件につきボクにはまったくオトガメ無しで、課長の噂もいつしかフェード・アウトした。
ときに日本は、スィスィスィ~ダラダッタ スラスラスイスイスイ~植木等「ニッポン無責任時代」のノリと、「東京オリンピック」の興奮がさめやらぬ昭和三十九年。ボクにとっては、いい先輩だったのですがね!アハハハ…(もちろん斉藤課長は実在でしたが、仮名です。)
自分へのご褒美「カツライス」
写真は当時の実物ではありませんが全体が似ています。アーモンド型ライスの盛り方、大盛りキャベツの千切り(カツの下に敷かれていなくて、独立盛りでしたが)、そして主役のカツとたっぷりのソースと洋カラシ。ただしお皿はやや大振りの楕円形のステンレス製でした。
いざ!というときの「かつ丼」。という諺(ないか…)暗黙のいわれ?があるように、ここ一番力を入れる場面では、なぜか?カツ登場なんですね。 残業の夜食にはガッツ入れるために「ここは、かつ丼で!」とか。漫画の中では、 警察の取調室でここで容疑者を落とそうとする場面に、出前のカツ丼が決定的役割を果たす(らしい)ように、カツ(勝)には特別な力があるようです。
代々木にあったデザイン学校への通学途中に、とても安くて旨くてボリュームのあるカツ屋さんがありました。カツ屋さんといっても、和式の小上がりがあるような本格的な店ではなく、ラーメン店のようにカウンターだけの簡素なつくりの店でしたから、カツ丼、ヒレカツ、とんかつ、カツ重などはなく「カツライスのみ!」(であったと思う。他のメニューは食べたことがないので…?)
いつもピーピーで、腹が減ったからといって外食に使える自由なお金はないから、ここ一発の心機一転とか、デザインの宿題の出来が褒められたとか、2日間徹夜して課題提出に間に合ったとか…旨かったなぁ~、力が湧き出たなぁ~(ハレのときだけではなく、落ち込んだときにも喰っちゃったりしましたけれどね。)
金もなくキャリアもなく、周囲に語れる自慢話もなく、ひたすらグラフィック・デザイナーになる!という夢(妄想)だけにしがみついてバタついていた20歳頃の思い出です。