琴似生活はじまる

 

1953年(昭28)  

琴似山の手の田舎生活

 

 小学2年生になったとたんに、父親の仕事の関係で、上芦別から札幌の山鼻へ。小学校2年生は幌西へ。

 そして1年後、矢継ぎ早に琴似・山の手へ移り住んだ。

 落ち着き先のその場所は、戦前まで母の実家(狸小路2丁目付近のあたりにあった「軍艦屋」)所有の小さな牧場(2000坪程)があったところで、戦前から、アイスクリームをつくるための乳牛を3頭ほど飼い、他に山羊や鶏も飼っていたそうである。転校した学校は、山の手通りから2㎞歩いた琴似本道りの琴似小学校。1953年(昭和28年)であった。

 今から50年程前の「山鼻」と「琴似」の環境の違いはかなりの差があった。たとえば山鼻地区には今も活躍している市電(西線)が通っていたし、道路の一部はアスファルト舗装されていて、ハイヤーなども頻繁に走っていて便利。街並みも静かな佇まいで、落ち着いた住宅地として完成していた。

 それにくらべて琴似山の手は、本当に田舎だった。しばらくの間は、このだだっ広い野っ原と寺口山の里山と、どうつき合っていいのか解らず、しばらくは小学校と自宅を行ったり来たりの毎日であった、が…すぐにボクを釘づけにした最初の出来ごとに遭遇した。

 


 

馬のゲ蹄鉄さん

 

 琴似小学校に転校した2年生の5月頃、国道5号線に出た十字交差点のすぐ右手あたり(現在の交番)の木造の掘っ建小屋の前に、下校途中の小学生たちが10人くらい横一列に並んで、何やら ワイワイ騒がしい。

 僕は静かに近づき、新参者だから遠慮しつつ、背伸びして彼らの背後から様子を窺った。

 そこは間口が大きく開いたガランとした馬小屋で、馬が一頭、頑丈そうな木枠の間に繋がれて、のんびりと飼い葉をはんでいる。その奥では頭に白手ぬぐいを巻いた浅黒顔のオッサンが、何やら忙しそうに動き回っている。そこは馬の蹄鉄屋だった。

 一本が50cmほどのまっすぐな鉄の棒を、真っ赤になった炭の塊に突っ込んで柔らかくし、何度もカンカンと叩いて馬の蹄にあわせた輪にしていく。オッサンが馬の前脚を左腕と脇腹にしっかり挟み込み、古くなった蹄鉄をはがして伸びた馬の爪を、丸く反った小刀で削る。輪になったできたての熱い蹄鉄を、馬のヒズメにぴったり合わせて、ズレや隙間ができないようにグイッと食い込ませる。一瞬ジジッと馬の爪が焼ける小さな音と同時に、淡い乳白色の煙が立ち上がる。この場面、子供たちは息をのみながら隣の子たちと目を合わせて顔をしかめ、急いでふたたび無言で続きの作業を見入る。

 馬は平気な顔でヨダレを垂らしながら、口をモグモグさせている。

 しばらくして爪の焼けた、ちょっと香ばしいニオイが漂ってくる。

 オッサンは矢継ぎ早に最後の作業にとりかかる。でっかい釘を口に含みながら、あざやかに素早く釘を打ち込んで蹄鉄とヒズメを固定する。馬はそれに何も反応せずに、ただモグモグしている。

 しかし子供たちはそれぞれが馬の立場になっていて、釘打ちの痛さを感じて身動きをしない。ここあたりがこの作業のクライマックスである。

 作業の合間に、オッサンは何度かゆっくりと煙草をくぐらせたり、番茶をすする。その間は、場の緊張が途切れて、子供たちのニギヤカな感想と感激の発表会となる。

 長い作業時間の中で、オッサンは子供たちに一度も何の言葉もかけない。子供たちも肝心な場面は、声を出さずに静かに観入る。そこには子供を相容れない男の仕事場という境界線があるし、子供側にはすごい技をタダで見せてもらっている、という尊敬した緊張感があって「馬の蹄鉄屋さん」は、毎日毎日大盛況だった。

 それまでの山鼻生活とはうって変わって、大自然と一体になった大いなる田舎、琴似山の手での素晴らしい生活がはじまった。

 

 

アイス&ソフトクリームは、今も大好物!

 

   いい歳をしてちょっと恥ずかしいのですが、本当にアイスクリームが好きなのである。

 何年か前の真夏に、日本経済新聞(フランス文学者/鹿島茂氏のコラム)に次のような話が載っていた。その話とは、本人が暑い夏の日にとあるコンビニに立寄った際、団塊の世代らしきサラリーマンのオジサンが幸せそうな顔つきでソフト・クリームを食べていた。という情景に出会った時のことを、筆者は想像を加えてこのように書いている。

 

 「きっと、この人は昭和30年代にソフト・クリームなるものをデパート食堂で食べたとき、この世にこんなうまいものがあるものかと大感激したことがあるにちがいない。それからというもの、ソフト・クリームを腹いっぱいに食べたい、あるいは子どもにはソフト・クリームを好きなだけ食べさせてやりたいと心のどこかで思いながら、一生懸命働いてきた。ところが、ふと気がつくと、子供はソフト・クリームを欲しがる年齢はとっくに過ぎ、自分もリストラの恐怖にさらされている。そんなとき、営業に出た先でコピーを取りにコンビニに入ったら、レジのわきにソフト・クリームの機械があったので、思わず一つ頼んでしまった。<のであろう。と文章は続いて>

 「昭和30年代に少年・少女時代をおくった団塊の世代にとって、ソフト・クリームというのは、まるで天から降って来た、神の食べ物のように感じられたはずである。ソフト・クリームをうまいと感じるくらいの文明の進捗度、それが健全なのではないだろうか。」(カッコ内原文のまま)

 

という文章に出会い、私は、豊かさについてのわかりやすい見識に共感したり、ソフトクリーム好きオジサンは沢山いる、らしいことにホッとしたりした。

 なぜこのような話が気になったかというと、昭和20年中期~30年代の時代背景に加えて、私の場合、母の実家が札幌の都心で大正時代から戦後にかけて、アイスクリームを自家製造し販売していた関係で、遊びに行っては、それが好きなだけ食べられたようで、三つ子の魂死ぬまでのごとく、アイスクリームやソフトクリームはがつく好物になってしまったのである。

 アイスクリームは、かなり昔から作られていたようだがソフト・クリームは日本においては、昭和28年に米国製のフリーザーが輸入されデパートなどで実演販売が行われてかららしい。札幌ではおそらく昭和30年頃に始めて売られ、一般にお目見えしたものと思われる。

 母の実家の店の機械からゆっくりと絞り出てくる白いソフトクリームと一緒に、あっちの国の希望に満ちあふれた気分も、フヮ~とコンモリふくらんでいた。

(※ただし、以前から血糖値が高かったのが、老後の65歳になって糖尿病に移行し、カロリー管理の食事療法になってからはアイスやソフトクリームは殆ど口にしていません。トホホ…)

 

 

 

いろんなもの、喰ってきたな~

 

 この国では21世紀になってから“昭和レトロブーム”に乗って復刻商品が発売され、それなりに話題となった。例えば日清食品の「チキン・ラーメン」、大塚食品の「ボンカレー」、池田の「バンビキャラメル」…etc。

 これにはいくつかの理由がありそうです。

 日本の有名企業の中には最長100~120年の歴史(中には、江戸時代からの歴史がある会社も多々ある。)を持つ企業数が世界(といっても欧米)でも最上位にランクされているそうです。また日本では戦後の昭和25年頃創業の社歴60~70年の会社も多く、そこから60年以上経過している訳ですから、創業者も高齢となり、すでに第一線を退かれたり、またはお亡くなりになった方も相次いでいます。それぞれの差はありますが、時代が変わると創業精神が薄らいできたりしますから、創業ヒット商品を復活するなどで、会社存続の原点を確認しましょうという意味も含んでいるようです。

 昭和を象徴する商品の中に「インスタント食品」現る!……その筆頭は、世界初の即席ラーメンで、明星「チキンラーメン」。1958年(昭和33年)生まれだから2008年でちょうど50年。お湯を入れるだけで食べられる!このスタイルの商品は様々なメーカーから販売され、以前よりも増して国内は勿論、世界中でも大人気。

 ボクは最初なぜか、チキンラーメンにお湯を注いで食べることを知らずに、ポリポリとそのままかじっていた記憶があります。 ボクが最初にインスタント物を知ったのは、渡辺の粉末ジュースのオレンジ味でした。オレンジという言葉の響きは“日本のみかん”と違って、外国のイメージですからオシャレな感じでした。

 その後インスタントの「コーヒー」「ふりかけ」「カレールー」などが続々登場。元祖的インスタント商品は「お茶漬のり」であったようです。インスタント食品ではないが、子供たちの好物は「ガム」と「キャラメル」、それと「チョコレート」で、ボクは特に「アーモンド・キャラメル」と「アーモンド・チョコレート」が最高級のオヤツでした。アーモンドとい香ばしいナッツを知り、それにハマッタのも外国の高級なイメージがあったからです。

 チョコレートといえば煙草の「シガレット・チョコレート」というお菓子。これがかつては子供向けのチョコレートとは…実際の煙草よりも小さいサイズにできており、チョコレートが紙にくるまれて10本程がピース型の箱に入っていて、大人たちと同じように箱から取り出してスパーッスパーッ!大人の気分を味わってから紙を剥がしてチョコレートを食べるという具合でしたから、自然に?大人になったらタバコを喫おう!と思わせましたよ。  禁煙時代の今から振り返ると…子供の教育上、良くない商品だったのですね。

 

水泳は琴似の発寒川で

 

 昔の小学生の夏休み風景は“虫取り”や“川遊びと水泳”。

 海水浴といえば銭函や朝里、蘭島へ海水浴にみんなが汽車でワイワイ行ったが、琴似方面の近場では、発寒川や北大のプールでパシャパシャやっていた。

 北大のプールには子供たちだけで何度か行ったが、ここは水が緑色になっていて、とても不潔そうなプールであったから行くのをやめた。

 水遊びと水泳はほとんどが発寒川で、ボクが琴似小学校三年生で水泳をマスターしたのはこの川だった。

 琴似小学校から発寒川へ真直ぐ行った四条六丁目あたりの河原は、いまのような護岸ブロックは一切なく、背の高い草ヤブをかき分けて細い一本道から河原へ出た。

 大人たちが川底を掘って水溜まりにしたプールで、小学生たちが三十人ほどバシャバシャと泳ぎを練習していたものだ。

 上級生や中学生が水中から足を引っ張ったり、頭を押さえつけたりしてゲボッと水を呑まされたりしながら…そんな荒っぽい方法でムリヤリ水泳を習得するのだった。

 このあたりの河原の土は粘土質で、小学校の図画工作の学習でもここの粘土を使っていたほどだから、川プールの水の色は粘土が溶けた色、黄土色に濁っていた。でもそれは自然土が溶けた成分だったから、特別身体に悪いといったものではなかったように思うが?。

 発寒川の自然プールはここの他に、上流にもう二つあって、ひとつは北一条線のふもと橋のあたりの“第一崖下(がんけ)”と、そこから河原を二十分ほど上流に歩いた“第二崖下”(現在は立派な河川公園になっているあたり)。ここでは中学生から高校生が遊んでいた。

 この川プールは午前中は崖の陽陰になり、カンカン照りの真夏でも涼しいくらいだが、陽が昇った正午あたりになると真上から陽が射して気持ちよい。何よりの魅力は、川の流音とセミの鳴き音しか聴こえない、静けさだった。

 水泳に飽きると、割箸の先に縫い針をくくりつけただけの“ヤス”で、ドジョウやゴダッペ(小さいカワカジカ)を刺して、たき火で焼いて遊んだり、河原にたくさん生えていた背が高くて茎が空洞の雑草の枯れ葉を揉んで、それを茎に突っ込んで、葉巻きタバコのようにしてスパスパ遊んだりした。(もちろんタバコを吸ってみる真似ごとだけであったが。)

 たき火というと…テクテクと川まで歩く道沿いの畑から、まだ充分に実っていない青っぽいジャガイモやトマト、ニンジンを盗んで、ジャガイモは河原で焼いて腹ごしらえをしたりした。当時の畑の肥やしは人糞なので、しばらくすると軽い腹痛を起こした。それは回虫を宿したことであり、虫くだし薬を飲まされて解決した。当時の男の子たちは、皆が同じような体験をしていたはずである。

 自然の川で一日中遊ぶことができたことは、昭和三十年代最後の田舎生活の貴重な体験であったのだ。いまは川のすべてに護岸工事が施され立派な美しい公園に変貌しているが、自然の面影は一切ない。川はそれでいいのかな?犬の散歩道には便利だろうが…太陽の下で思いっきり遊んだ記憶と比較すると、それはとても寂しくて空虚な風景に思う。

 

お~ぃコラ」タダの見せ物でねーぞ!

 

  ♫~ぼ、ぼ、僕らは少年探偵団!勇気りんりん瑠璃の色~♫  

 ボクが九歳の昭和三十年頃には「少年探偵団」や「怪人ニ十面相」「月光仮面」などの、少年向け〈絵入り活劇連載物〉や〈紙芝居〉が大人気だった。

 それらはすぐ後にラジオやテレビのドラマにもなって、架空と現実が頭の中でゴッチャになって夢かうつつか幻か

 そんな僕らの少年時代。

  草むらと野っ原と薄暗い森と林と、ジャリ道と小川。空き地であろうが、材木置き場であろうが、建築中の家だろうが、怪しい雰囲気が漂う空き家であろうが、ピョンピョン飛び回って遊んでいたものだ。

 学校から帰ってカバンを放り投げ、遊びにでかける少年三人組は、何か事件(面白いこと)はないか?と、今日も近所をウロウロ、キョロキョロ。あの頃のぼくらは、寝ている夢の中はもちろん、いつの時間も空想と妄想で生きていたような。(今でもそうかハハ)

 そんな、ある日のこと

 小学3年生ちびっこ三人組は、凸凹ジャリ道の琴似山の手通りを、いつものようにピョンピョンと偵察していたところにボクの側を、白いニワトリがトットットッと走ってきた。

 「おお、ビックリ!」そのニワトリは、三メートルほど通りすぎて、深い草むらにパタリと転がった。(ピクッピクッ パタッ)

「あれ何だ?」

 矢継ぎ早に、五メートルほど右手横を、また、ニワトリがパタパタと走ってきて、ちょっとだけ飛び跳ねてパタリ。(ピクッピクッ パタッ)

「お~何だ、何だ!」? それは、首の無いニワトリだった。

 

 「おお~い、お前ら!タダの見せ物でないぞ!」

 30mほど先の道路沿いから、でっかくて大きな声がボクら三人に向かっていた!

「そこの三人、こっちへ来い!」

「いま、タダで見たんだよな」(あくまでも一方的な言い方)

「は、はい」

 頭に白い手ぬぐいを巻いた、髭ずらの(すでにこわ~い)オッサンは早口にまくしたてた。

「このニワトリはな、おまえたちが喰ってる肉にするために、首を斬って走らせて血を抜いているんだ。血を抜かないとナマ臭いからな

「はぁ…………

そう言いながら、目の前でまたニワトリの首をスパッ、ポイ。

「ワォ~、」 ブルブルッ (おシッコちびりそう)

「よし、あのニワトリを拾ってこい。ひとり四羽だぞ!」

「タダで見てたんだからな、手伝えよ!」

「ヒェ~」

 ぼくらは抵抗できずに仕方がなく、あっちからこっちから一羽づつ拾って、恐る恐るオッサンの側に持っていく。

「次は、あっちにも行ったぞ!」「こっちは、お前が行け!」

「どうせなら、両手で二羽持ってこい!」

 まるで猟犬のようにニワトリの二本の足をしっかり握ってはじめて体験する節々がコリッとしたトリ足の感触。子供にとって、一羽は結構ズシッと重い。

三人は頑張って何とかこなして「終わりました」(これで逃げ帰りた~い!)

 

 ところが

「それじゃ次はな~そこのバケツになニワトリ入れて、羽根むしれ!」

 すでにバケツからは、モウモウと湯気が立ちあがり、熱そうなお湯が入っている。

簡単に手順を指導されて、そこに血まみれのニワトリをズブズブッと突っ込むのだ。(たぶん、温めると羽根が抜けやすくなるのだろう

 しばらくお湯に浸して素手で羽根を引き抜く。むしった羽根が手にくっいて、そうはうまく行かない。気持ち悪~い。

「おい!湯がぬるくならないうちに、素早くやれよ!」

 キャ~!これがメッチャクチャ臭いのである。オエッときて、すでに半ベソ状態。手は脂でヌルヌル。プツプツ鳥肌のトラ刈り状態になってやり直しの連続。

 オッサンは、ついに羽根抜きは使いもにならない(商品にならない)と判断したか

「おぅ、もういいぞ!また手伝いにこいよ!」って。

これで放免……

 ぼくらは三人とも、いままで起こっていた悪夢を振り払うように、無言でまっすぐ小走りでそれぞれの家に散った。そのことは誰にもしゃべらずに

 その日の夜はいつもより音無しく無口なので、母親に

「ずいぶん静かだね、何かあったのかい?」と上目使いで気にされた。この事件のことは、三人で封印して誰にも話さず、しばらく秘密にしていた。

 

 

 

1955年(昭30)9月17日

父の急死

 

 初秋の琴似小学校三年生、午後2時ころの体育の授業中であった。

 体育館の昇り棒によじ上っていた僕に、担任の先生が「千葉くん!ちょっと降りてきて。お話があるの。」と小さな声で呼んだ。ん何??と思いつつ下まで降りると、先生は僕の肩に手を添えて職員室に連れて行く。そこで父が倒れたと告げられた。とっさには何が何だか理解できないままに、すぐに学校の用務員のおじさんに連れられて、父が倒れた琴似山の手の父の友人宅に到着する。何人かの大人たちがそこにいて、僕が着いた途端に、誰もが急に押し黙ったので、子供ながらにただならぬ気配を感じる。

 大人たちの間から父が仰向けに寝そべっている姿が見えた。顔が赤かった。脳卒中ですでに死んでいたのだ。父の友人と囲碁を打っている途中で、父が「もうだめだ」と言ったので、打っていた囲碁に負けた?という意味に聞こえたが、そういった途端にグラッと倒れたとのことであった。

 その場で僕は「お父さん!?」と小さく声を掛けてみたが、何も応えてくれなかったので、とても淋しい思いがしたのを強く記憶している。何も応えないのが死

 父の遺体が家に帰った途端に母が号泣したので、僕もそこで泣いた。僕は9歳だった。弟は6歳で何も解らなかったらしくキョトンとしていた。いま思うとその姿がとても可哀そうだ。

 通夜が終わり、告別式も終わり平岸霊園で遺体を焼いた。 父は57歳であった。 焼いている途中でおじさんが僕を屋外に誘った。おじさんが真っ青な空に立ち昇る煙を指さして「ほら、お父さんだよ」といった。見上げると焼き場の煙突からうすい灰色の煙がまっすぐに、不思議にまっすぐに、ゆっくりと天に向かって昇っていく。僕はまた悲しくなって泣いた。


 

 

紙芝居

  

   昭和30年頃の心地よい春の夕暮れと、そのかすかな記憶。

 カチ カチ カチ   紙芝居屋のオッサンが拍子木を打って子供たちを集めている。 

 しばらくして、あちらこちらの路地や家の中から子供たちが湧き出てきて、紙芝居の商売がはじまった。

 オッサンは、まず小さい子から5円玉を受取り「黄金色の飴」や「型抜き」を手渡しつつ、さっさっと紙芝居の見物料を回収している。(型抜きとは、うまく穴があいたらおまけでもう一つ貰えたりした。)

 お金を払って紙芝居の最前列に陣取っている子供たちは 45才くらいかその後には、同じくお金を払った小学生が首ひとつ出してニギヤカに待っている。

 一方 大きくなった小学6年生や中学生は、ダダでも見れることを知っているから少し離れてブラブラしながら、紙芝居がはじまったらサッと近づくタイミングを計っている。勿論オッサンは、いつものそんな状況を知っていて

「タダで見る奴もっと離れろ!」声をちょっと荒げて注意する。

 だから紙芝居の観客席は、お金を払っているグループとそうでない子供たちの間に23mほどの空間が出来ていた。ずっと背後の塀や立ち木に登って見ている奴もいて、それはとてもニギヤカだ。昭和30年代の路地裏の、春の夕方の懐かしい情景。

 

 

 

あれれ…あれ  な・ん・だ? 

 

 そういえば…昭和30年代の郊外には、いつも野良犬がウロウロしていた。

  僕らに愛想良く結構なついている犬もいて、学校帰りを待っていて子供グループにチョコチョコ付いてきて、遊び相手になっている奴もいた。一方いじめられ専門の犬もいて、いつでも石をぶつけられたりパチンコや弓矢で攻撃され遊ばれているから、いじけて目つきが悪くなり、犬相も悪くなっていた犬もいた。

 飼い犬にしても、家の玄関先とか庭先に鎖で繋がれていて番犬として飼われているから、近づくとキャンキャンワンワンうるさくて、これまたいじめの対象になっていた。(たまに鎖がはずれてフリーでいたりすると、逆襲が怖くて一目散に逃げたものだ。)

 ムリヤリな推測だが、現代のいじめの原因一つは、「カエルの空気入れ」とか「野良犬いじめ」ができくなったからかも?とフッと思ったりする。

 現在のように、室内で飼われているペット犬というのは一般家庭では殆どなく、例えばお医者さんの家のお金持ちしか飼えないから、なじみが薄かった。(50~60年代にはキャンキャンとうるさいスピッツが流行った記憶がある。)

 話しが変わって、犬の思い出のひとつに、春になると犬同士がケツとケツがくっいている情景に出くわすのだ。小学生たちにはそれが何だかさっぱり解らなくて不思議な情景なので、子供たちは犬たちには3mほどまで近づき、ワイワイガヤガヤする。しばらくすると、それを見て気がついた誰かのお母さん(またはどこかのお婆さん)が現われて、いきなり「みんな!もう帰えんなさい!!」って語気強く命令され、ムリヤリ解散させられたことがあった。

 そんな自然生活の中で、動物としての人間を、少しづつ理解しながら大人になっていったんだな~と思うのである。

 

 

角食パン一斤もって

 

 父が亡くなってから暫くして、母は知人のツテで住まいからすぐ近くの国立札幌療養所(現・琴似山の手、北海道医療センター)の炊事係(調理)に就職できた。とにかく寂しいながらも、親子3人の新しい生活が始まった。

 幸い琴似山の手の住まいの敷地内には、大きな池や牧場跡の畑、雑木林(防風林のしだれ柳)や小川などの遊ぶところが一杯あって、子供にとっては退屈しない自然環境が整っていた。加えて母の兄妹が大勢いたから、休日や春・夏・冬休みには従兄弟たちが入れ替わりに遊びにきたりして、僕ら二人兄弟は賑やかな少年時代を過ごせたと思う。

 特に夏休みの想いでは、母の妹(おばさん)が空知幌向(夕張鉄道)の「晩翠」(ばんすい)で稲作農家をやっていた。ここは田舎も田舎、見渡す限りの水田地帯なのである。